GHQの日本占領史研究に新たな記録と証言が登場した。日本を占領する側のGHQ経済科学局科学技術課員が日本の科学技術全般にどのように関わったかを明らかにしたものだ。本書の帯には「日本の優秀な科学技術者を信じた若き占領軍のスタッフが、日本再建への道をつくる」とある。
さらに詳論としてつぎのように記されている。
「日本を再び軍事大国にしてはならないというのが占領軍の史上命令であった。原子力研究の禁止、航空科学の禁止と矢継ぎ早に占領政策が打ち出される中、その実施スタッフとして、GHQ科学技術課に若き科学者たちが配属されてきた。彼らは、日本の貧困と飢餓の中で立ち上がろうとしている日本の科学者たちに出会い、この国を経済的に自立させ繁栄に導くのは、彼ら科学者と技術者であると確信を抱く。本書は、当時のGHQ科学技術課員であった著者が、日本の科学者と共に、日本の古い体質を変え、新しい組織を作り、科学技術の産業化への道筋を築き上げるために情熱を傾けた科学技術課の仕事を詳細に記録した、歴史的ドキュメントである」。
著者はどんな人物か。本書によると、ボーエン・C・ディーズ氏は1917年に生まれ、1942年にニューヨーク大学で物理学の博士号をとり、第二次世界大戦中はMITでレーダー研究、戦後はレンスラー工業大学の物理学助教授。1947年、日本占領3年目、30歳のとき、マッカーサーの要請で連合国最高司令官総司令部の経済科学局科学技術課員に赴任し、戦後の日本経済と科学技術の再構築に専念し大きな影響をもたらす(1952年まで)。
その後、アメリカ合衆国財団、アリゾナ大学副学長、フランクリン研究所所長などを歴任する。この間、日米科学協力委員会の米側代表を務めるなど、日米の科学技術行政の交流に深く関わった科学技術行政官であった。本書の刊行は若いときの物理学教科書『物理学の基礎』の執筆いらい二冊目であるという。
さて、われわれは日本の戦後科学技術史研究については、科学史家中山茂氏が代表を務めるプロジェクト研究「戦後科学技術の社会史」をまとめた『通史:日本の科学技術』全7巻(学陽書房、1995年、1999年)を知っている。その『通史』の第1巻は「占領期1945-52」である。著者が本書を執筆した動機は、中山氏らが占領期の日本科学技術に関する不明・疑問のところを占領軍経済科学局科学技術課員の著者にインタービューしたことに始まるようだ。このインタビューでおそらく中山氏から著者が米側の当時者として記録・証言を残すよう進言されたこともあるようだ。
それにしても著者は本書を執筆するあたり、国立国会図書館所蔵の連合国最高司令官総司令部記録文書が内在するマイクロフィッシュの中の厖大な記録文書を読み込んでいる。
本書の構成と項目をあげておこう。著者も述べていることだが、本書は2部構成からなり、第1部は第1章から第13章までで、著者の所属する科学技術課が日本の科学技術に関わった事実関係を扱い、第2部は結論としての第14章で、科学技術課が戦後日本の科学技術社会にどれほど影響を与えたのかを述べたものである。
序文(中山茂)
謝辞
はじめに
第1章 1945年以前の日本の科学技術
第2章 科学調査と初期の管理
第3章 第一歩
第4章 仕事に取りかかる
第5章 原子力の管理
第6章 占領軍の最初の年
第7章 二重の官僚体制-理研物語
第8章 科学における民主主義の獲得
第9章 二つの学術顧問団
第10章 管理援助
第11章 標準規格と品質管理
第12章 技術と経済
第13章 物語の終わり
第14章 50年後
訳者あとがき(笹本征男)
付録:
使用したマイクロフィッシュ
文献目録
索引
本書を要約すると次のようである。
第1は、連合国、実質的には米国の日本占領は成功であったこと。
第2は、絶大な権力をもつGHQ経済科学局科学技術課が日本政府高官と当時の著名な日本人科学者をおびただしい頻度の尋問を繰り返し、日本の戦時科学技術体制の破壊と再編を目的にして「民主的」な科学技術行政組織を作り上げた。この間、GHQ特別参謀部局としての経済科学局科学技術課の仕事がどのようなものであったかを、科学技術課内部のさまざまな人的な交流をもとにした事実的記録を事細かに描いたこと。
第3は、こうして築かれた日本の科学技術行政組織の基盤を築いたことが、戦後の日本経済を奇跡的とも言えるほど復興させたこと。おおまかに言えば以上である。
総じて、著者は控えめな表現ながら、日本占領下、著者が属する経済科学局科学技術課が日本の科学技術行政ひいては日本の経済復興に、いかに重大な影響を与えたかを主張する。その大きな要因となった基盤は、日本学術会議等々の科学技術の組織作り、国際標準規格と品質管理の策定、日米科学者の交流促進などをあげている。
米軍占領期の日本でGHQ経済科学局がどんな任務を持ち、科学技術課の科学行政官が日本の科学技術の組織作りに具体的に何をやったのか。これに直接関係した当事者の記録と証言はきわめて貴重である。
それでも、いくつかの不満が残った。
まず、きわめて重大な問題である広島・長崎への原爆投下にたいする責任問題にかんする米側科学者の言明がほとんど登場しないこと。日本の民衆の姿がまったく描かれていないこと、日本軍の731部隊いわゆる細菌を使った中国人への人体実験の調査資料の行方、などの闇の部分に依然として「沈黙を守っている」ことである。
占領軍は天皇制と日本政府を温存させたまま二重権力構造の占領体制を強き、日本政府をコントロールしたのであるから当然と言えば当然であるが、著者らが関わったのは、日本政府高官と戦前日本の支配層の一角をなしていた科学者たちだけである。
本書のような占領側の記録と証言が日本語で読めるのはありがたい。訳者の労に感謝したい。
訳者は長年、市民の立場から一貫して占領史研究に関わってきている。著書に『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』(新幹社)、訳書に『GHQ日本占領史 第51巻、日本の科学技術の再編』(日本図書センター)がある。
評者が占領史研究に関心を持ったのは訳者の著書を読んでからである。これまで一貫して抑圧される底辺の人々の視点から科学と社会を考察する訳者の学問活動を支援しつ、訳者から学問観・人間観に関する多くのことを学んできている。訳者の文章は文学と歴史が混在している。今度は訳者の手によって文学性を帯びた作品を書いてほしいと期待したいしている。