書評:高瀬正仁『高木貞治とその時代―西欧近代の数学と日本』(東京大学出版会、2014年8月22日)

高木貞治(1875-1960)は近代日本初の世界的な数学者である。世界的な数学者の名声を得る高木の数学的理論は「類体論」と言われる二つの論文から成る。その類体論の第一論文は、「相対アーベル数体の理論」(独語)、邦訳では「相対的「アーベル」体ノ理論」と呼ばれるもの、第二論文は、「任意の代数的数体における相互作用」(独語)、邦訳では「任意代数体ニ於ケル相互律」と呼ばれるもの、である。

前者は『東京帝国大学理学部紀要』(第41号、第9篇、全133頁、1920年)、後者は『同紀要』(第44巻、第5篇、全50頁、1922年)に収録され刊行された。しかし、この二つの論文はそれぞれ、刊行以前の1920年2月と6月には執筆が完了していた。高木45歳の論文である。

類体論が完成するまでの道程は、主要には、ゲッチンゲン大学の数学者ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)のもとで学び、ヒルベルトとの数学的な交流と議論により培われたものだが、当時の日本の数学は、ドイツの数学よりも50年はおくれていると言われる。高木の類体論の登場によって、そのおくれが克服され、日本の数学はヨーロッパの水準まで達したとされる。

この類体論の完成により「世界の高木」になるが、少年時代からそこに至るまでの期間に関わった多数の数学者たちとの出会いと相互の交流と議論は、そのまま、近代日本の数学の歴史である。

近代日本の数学の基盤は、蘭学者出自の菊池大麓(1855-1917)と幕臣出自の藤澤利喜太郎(1861-1933)によって構築されるが、その菊池と藤澤はそれぞれ、イギリス(前者)、ドイツ(後者)で学び、そこで修得した幾多の数学的内実を、帰国復帰した東京帝国大学の数学教室に直接的に移入した。その結果、イギリスとドイツの数学的内実からもろに影響を受けたことは論を待たない。その詳細な論述は圧巻である。

当時の数学者の西洋留学は、近代日本を創る明治政府の国家政策であり、高木も同様に、国家的政策の留学を享受し、ゲッチンゲン大学に学んだ後(3年間)、菊池・藤澤に継いで、東京帝国大学の三番目の数学の教授となるが、それ以前に、菊池と藤澤の数学的な業績・特色と、この二人から、高木が受けた講義内容や教育方法などが事細かに披瀝されている。

そもそも高木が数学を志す要因はどこにあるか、を考えるとき、石川県加賀藩の数学者たちからの影響がきわめて大きい。その根幹には加賀藩士族出の和算出身の洋算家関口開(1842-1884)の存在がある。その関口の門下の同藩士族出の洋算家河合十太郎(1865-1945)から、高木は数学を学び、人生を左右するほどの影響を受けた。数学をやるか哲学をやるかを思案していた哲学者西田幾多郎(1870-1945)も、河合の先輩で同じ関口門下の北條時敬(1858-1929)から数学を学んでいた。独特の数才を放つ数学者岡潔(1901-1978)もまた、河合の晩年の教え子でもある。

こうして高木の数学の中で、蘭学者と幕臣出自の純粋な洋算家の菊池・藤澤の系統と、加賀藩士族出の和算出身の洋算家の関口開・河合の系統が、織り交ざり合流することになる。この時代に学問(数学)に生きる人間の運命的な出会いを見る思いがするが、高木の心中はいかばかりか、想像に難くない。

高木の数学の理論「類体論」と高木に影響を与えた数学者たちの一端だけを述べたが、総じて見ると、高木は名誉欲なき非政治的な生粋の数学者である、と評者は見る。それは東大定年後、長野県出身で物理学校出の藤森良蔵(1882-1946)が起こした民間の数学教育啓蒙の活動を献身的に支援する様子を知ると、そこに慈愛に満ちた数学者高木の良心を見るからである。

最後に本書は、多変数関数論と近代数学史を研究する著者が、既刊の『高木貞治―近代日本数学の父』(岩波新書、2010年12月)を踏まえ、それに最近の研究を盛り込み、新たな構成を組んだ日本初の本格的な数学者高木貞治の評伝である。数学の美的世界を夢見る数学者たちを追いかける著者の熱い眼差しには、無条件に魅了される。(猪野修治:湘南科学史懇話会代表)