書評:田中耕一『生涯最高の失敗』(朝日新聞社、2003年9月25日) 2003年10月17日『週刊朝日』、今週の逸品欄(117頁)掲載

 企業で働くエンジニアの著者は、身体的にも金銭的にも負担の少ない診断装置の開発に取り組んでいる。あるとき想像もしないノーベル賞受賞の報が飛び込んできた。それ以来、ふつうのエンジニアの生活が激変し、芸能人やタレントのようにマスコミから追いまわされる。世界に冠たる最高の栄誉には違いはないが、エンジニアの日常生活をとりもどし、人々の役に立つ種々の医療機器の開発現場に一刻も早く戻りたい。著者はその気持ちを読者に切々と訴え了解まで求めている。察して余りある。若年時代から「上がり症」の著者の自宅には、FAX用紙が紙切れする一千件を超える講演依頼や取材依頼が殺到する。

 ノコギリなどの目立て職人の父親譲りのものづくりと手作業の実験が大好きな著者は、毎日毎日こつこつと実験を重ねた。実験が楽しくて仕方がない。物質の種類や濃度を変えたり、実験のやり方を変えたり、試行錯誤を繰り返す。そんな実験途上でアセトンと間違えてグリセリンを使った。捨てるのは「もったい」と思った。これが幸いした。「生涯最高の失敗」である。偶然が積み重なりこれまで見たこともない「巨大分子を破壊させずイオン化する」現象を観察した。このアイディアを世界中の研究者がひきつぎ、改良に改良を重ねた。これがノーベル賞につながった。

 先取権論争が絶えないこの世界で、海外のライバル研究者も誠実なフェア精神を示してくれた。これも著者の人柄の功であろう。日本のものづくりエンジニアに、大きな勇気と自信を与えること間違いない。