論文:古都トレド

 筆者がはじめて海外に出たのは1973年8月のことでベトナム戦争下にある東南アジアへの旅であった。もうだいぶ昔のことになるがその体験は時間の経過とともに、現在のものの考え方やものの見方に大きな影響を及ぼしていることに気づくのである。今回のヨーロッパ教育事情視察から得た体験も必ずやそうなるにちがいない。

1. 古都トレド
 11月25日(日)午前中プラド美術館を訪問し、おびただしい絵画(グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ピカソ等)を解説員の詳細な説明を受け丹念に鑑賞した。きちにスペイン広場周辺の古い町並みを見学した後、バスは見渡す限りの大平原を一路古都トレドに向かう。その道中の車窓から見る風景は土地が痩せ赤茶色を呈し日本ではまず見ることができないもので異様な感じさえする。その風景は前日まで訪問したロンドンやベルリンの風景とはまるで異なる。

 ベルリンではなにかしらゴツゴツした感じであったのにくらべ、スペインではナメラカな感じである。同じヨーロッパ大陸にあるといえどもスペインと他のヨーロッパ諸国の風景がこれほどまでに違うのは主に地理的・気候的条件によるのであろうが、スペインがヨーロッパにしてヨーロッパにあらずと言われる理由の一つはこのあたりにあるのかも知れないと思う。

 こうしてバスは古都トレドに入り、すぐさまトレド全域を見渡せる展望台へ。そこから見たトレドの第一印象は町全体がまるで一枚の絵画を見ているような錯覚に陥ったことである。トレドの町並みそれ自体が午前中訪問したプラド美術館に展示されている絵画群の1コマのようであった。それも無理からぬことでトレドの町並みは中世の町並みがそっくりそのまま残存している世界的にもまれな町であるからである。トレド全域が美術館・博物館と言われる理由はそこにある。

 トレドの町の中に一歩身を入れると、通訳氏も言っておられたように一度迷ったら二度と出て来られないという、まさに迷路である。この迷路のように走る狭い石畳の古い道路にもしっかり完備された下水道を見たのには驚きである。東京近郊の諸地域にもまだ下水道のない町が沢山あるというのに。

 我々はトレドのほぼ中央に位置するカテドラルに入る。カテドラルの原型は6世紀にはじまるが、 13世紀に再びキリスト教の大聖堂として大幅な改築工事が再開され15世紀末-16世紀にほぼ完成したという。塔の高さは90mに達し円型をしたその屋根はかの有名な画家グレコの息子の設計であるという。完成まで200年近くを要したこの建物はその時代その時代の一流の建築家、石工職人、幾何学者が建立に貢献したのをはじめ、数限りない信徒達によって完成したのであるが、フランス風ゴシック調の建築様式として知られるスペイン・カトリックの総本山でもある。

 さてカテドラルの中に入っていくと、700枚以上にものぼると言うキリスト教の図像をモチーフとしたステンドグラスが描き出す光彩の見事さには驚くばかりである。このステンドグラスからの光彩に誘われて、カテドラルそれ自体もトレドの財宝であるが、カテドラルの財宝中の財宝と言われる宝物室に入る。宝物室は通常開放されておらず、係員が何百年も使用したと思われる歴史を感じさせる古い大きな鍵でその扉を厳かに開く。そこで見たものは目を見張るばかりの金、凱宝石で作られ15,600の部分からなるという聖体顕示台(エンリケ・デ・マルフェ作)は、まさに宝物そのものである。

 さらにトレドの芸術作品の中で最も感銘を受けたのはグレゴの傑作「オルガス伯爵の埋葬」 (サント・トメ教会)である。この作品はグレコの代表的作品だそうだが、そのモチーフはこの教会に多大な寄付をしたキリスト教徒オルガス伯の埋葬の際に奇跡が起こったというものである。その構成は地上界(現実世界)と天上界(理想世界)の二重性を表現し、当時のトレドの町それ自体のみならず16世紀スペイン全体の精神性そのものであるという。グレコはもともとギリシャのクレク島生まれでイタリアのヴェネチアで絵画を学んだ後理由は不明だというがトレドに移り生涯に渡りトレドで活躍するのである。いずれにしてもグレコはトレドの精神と同一化するに至る。

2. 東西交流の原点トレド
 このように歴史の中を旅しているような錯覚にとらわれながらトレドを後にして夕日がさしこむ中をバスは再びマドリッドへ向う。その車中、筆者は自然科学とトレドの関わりについてあれこれ考えはじめたのである。トレドは東西交流の地としてギリシャ・アラビア科学書の翻訳研究運動の拠点でもあったことである。

 近代の自然科学の源流はギリシャ科学やギリシャ自然哲学にあるのは自明である。これらの科学や哲学がヨーロッパで開花・発展し、17世紀後半にはほぼ輪郭が明らかになり今日に至るのである。だがギリシャ科学やギリシャ自然哲学が直接ヨーロッパに入ったのではない。それらはアラビアへ一度入りそこでアラビア科学が作り上げられ、そのアラビア科学がラテン語の翻訳を通じてヨーロッパに移入されたという歴史がある。12世紀ルネスサンス時代のアラビア・ギリシャ学術文献の翻訳運動である。

 この翻訳研究運動の中心地はスペインとイタリアで、スペインの代表的な拠点となったのが古都トレドであった。トレドにおいてヨーロッパ思想の根幹古代ギリシャ思想がユダヤ教徒やキリスト教徒により、ヘレニズムの遺産とも言うべきアラビア語原典から翻訳され、その分野はあの有名なアリストテレス著作集をはじめプトレマイオス、ユークリッド、アルキメデス、ガレノスなどの著作に至るなど、医学、天文学、数学、神学、農学と非常に広範な学術文献が含まれていた。たとえば有名な「トレド表」がある。このトレド表は暦・惑星運動などを求めるもので、トレドで作成されたアラビア天文表である。

 この天文表は非常に有用なものであったらしく、ラテン語に翻訳されヨーロッパに入り16世紀に至るまで現実に使われたのである。

 イタリア生まれながらトレドで大きな仕事を果した人物をあげる。ジェラルドという知的巨人である。ジェラルドはトレドでラテン語を学びアラビア語の書物をラテン語にする仕事に生涯関わるが、その翻訳は正確をきわめ、計り知れない数のギリシャ・アラビア科学をヨーロッパへ移入するのに大きな役目を果し、12世紀知的回復運動を代表する人物であった。

3. ギリシャ・アラビア科学書の翻訳研究運動の拠点
 こうしてトレドを拠点として12世紀ルネスサンスを形成したギリシャ・アラビア科学書の翻訳研究運動によって、ヨーロッパ世界は近代科学の形成の基盤となる思考様式を手に入れるのであるが、当時のトレドは画家や翻訳研究者を含め広範な人々が集まりヨーロッパ近代の源泉地を形成し名実ともに東西交続の原点であった。

 トレドで入手した『トレドのすべて』(日本語版)は主要にキリスト教・ユダヤ教の観点から建築史的・美術史的価値について述べているが、筆者の関心に寄せて考えると上記のように自然科学とりわけ科学技術形成の上で重要な場所でもあったのである。

 二度と来ることもないと思えるけれども、車窓から見渡す限りの赤茶色の大平原に夕日が沈むのを眺めながら、ヨーロッパの翻訳運動の拠点として学問的営為の香りのする古のトレドを思い出すのである。