書評:辻 哲夫『物理学史への道』(こぶし書房、2011年9月30日)

辻哲夫『物理学史への道』

本書は著者が1960年代前半から1990年代中ごろまでに、日本物理学会誌と各種の雑誌に発表した15本の論文を収集・編集し単行本にしたものである。主要な内容は「物理学史への道」「近代物理学の思想的背景」「アインシュタインの量子論研究から量子力学批判」「日本における物理学の自立」「日本の物理学研究の先達」「科学技術と文明」である。今からみると、いささか古い諸論文から構成されているが、物理学史の研究に直接にかかわった張本人の文章であるだけに、その途上の多数の物理学者の思考と研究の動向が臨場感をもって伝わってくる。

何の学問もそうだが、現在の学問の営みは過去の研究者が悪戦苦闘して作りあげた研究成果のうえにある。最前線の物理学者にとっても、先人の物理学者がたどった思考過程のありさまを虚心坦懐に振り返り再考察し追体験することはきわめて大切なことでる。このような知的営みは現代の学問分野では物理学史と言われる。日本の物理学会で物理学史が独立した学問として正式に容認されたのは1955年10月のことである。

その三年前の1952年4月、若き著者は、京都大学の湯川秀樹研究室の卒業ゼミに参加する素粒子論の研究者であったが、当時の政治社会の動向に敏感に反応し、物理学徒でありながら文学と社会運動にも精力的にかかわる。同じ研究室にいた恒藤敏彦や廣重徹などと一緒に西洋の先駆的な物理学の古典論文を読みつつ、また、そもそも物理学とはなんぞやと問いながら、物理学の理論の歴史構造を考えたり哲学的な認識論の議論をやったりと忙しい。

こうして、若き時代から紆余曲折しながら進めてきた物理学史研究の状況を、もっとも身近にいた同志の廣重徹の志や思考の変遷を中心軸にすえ、相互に賛同と批判を交えながら回顧するあたりは実に面白い。著者らの新しい学問を創造するのだという情熱には目を見張るものがある。ちなみに、廣重は日本の物理学史研究をいっきに世界的水準まで高めた物理学史家である。著者らの研究はやがて数名の同志を迎えて『物理学古典論文叢書』全十二巻(東海大学出版会)、『物理科学の古典』全十巻(一部未刊、同)に結実する。この重要諸論文と古典科学刊行の責任編集の任にあったのが、ほかでもない本書の著者の辻哲夫である。

本書のもうひとつの大きな論考は、著者のお膝元の日本における「物理学の自立」と「物理学研究の先達」はどのようなものであったか、という歴史的考察である。日本の物理学の研究史を考えるうえでまっさきに取り上げるべき人物は、その創立と形成に大きな役割を果たした「物理学の親父」の仁科芳雄である。仁科は電気工学を専攻するものちに物理学に転じ、当時の物理学のメッカのニールス・ボーアのもとで物理学の革命を担った多数の人物と交流・議論し鍛え上げられ物理学者となり帰国する。

その後は理化学研究所を舞台に指導的物理学者として多数の若手研究者を鼓舞し指導する。その手腕には圧倒される。やがて弟子筋にあたる湯川秀樹・朝永振一郎という二人のノーベル賞受賞者を輩出することになるが、この歴史的経緯は読者を魅了してやまない。物理学史とはなんとも人間くさい学問であることか。(猪野修治:湘南科学史懇話会代表)