論考:ヨハネス・ケプラー『宇宙の神秘』(大槻真一郎+岸本良彦=訳、工作舎、1982)の全貌を眺め読み、その肉声を聴く。

ヨハネス・ケプラー『宇宙の神秘』(大槻真一郎+岸本良彦=訳、工作舎、1982)の全貌を眺め読み、その肉声を聴く。
原著:Mysterium cosmographicum (1596)。この部分の原文は、M.Caspar編『ケプラー全集』(Johannes Keplar Gesammelte Werke, Band 1, München,1938)に入っている BAdW 002334737
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Ⅰ はじめに
Ⅱ 『宇宙の神秘』総目次
Ⅲ ケプラーのことば
Ⅳ ケプラー年譜
Ⅴ おわりに
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Ⅰ はじめに
山本義隆氏の画期的な労作『世界の見方の転換』全3巻(みすず書房、2014)における最終場面は「ヨハネス・ケプラー論」で終わっている。その議論の標題は「ヨハネス・ケプラー―物理学的天文学の誕生」であり、その各論は全20節と9項目の付録から構成されている。その全20節を具体的に挙げると次のようである。

 1メストリンとの出会い 2ケプラーの出発点 3宇宙の調和的秩序 4ティコ・ブラーエとの出会い 5ケプラーとウルスス 6天文学の仮説について 7幾何学的仮説と自然学的仮説 8物理学としての天文学 9物理学的太陽中心論 10ケプラーの0法則 11円軌道の破綻 12地球軌道と太陽中心論の完成 13等速円運動の放棄と面積速度  14楕円軌道への道 15ケプラーの第1法則 16第2法則の完成 17 第3法則とケプラーの物理学 18プラトン主義と元型の理論 19ケプラーにとっての経験と理論 20 おわりに―物理学の誕生。なお、ここでは付録(9項目は省略する)

 これらの議論(論述)を熟読し刺激され、本論考の中でも、集中的に解読されている書、なかでも、日本語訳版が出ている『宇宙の神秘』(1596)、『真天文学』(1609)、『宇宙の調和』(1619)だけでも熟読して見ようとおもったのである。その原典を解読することによって、山本氏の論考(ケプラー論)がもっと明晰に見えてくるのではないか、と考えたからである。今回は『宇宙の神秘』(1596)である。

Ⅱ 総目次
謝辞
読者への序
第1章:コペル二クス説の正しい理由とその説の解説
第2章:本論の概要
第3章:五つの正立体が二種類に分けられる理由および地球が正しく位置づけられている理由
第4章:三つの立体が地球のまわりを囲み、残りの二つが中に入る理由
第5章:立方体が正立体の第一のもので、最も高所に位置する[二つの]惑星のあいだにくる理由
第6章:木星と火星のあいだに正四面体がくる理由
第7章:第二次立方体の序列と特性について
第8章:金星と水星のあいだに正八面体がくる理由
第9章:惑星間の立体の配置、それにふさわしい特性、立体から明らかにされる惑星相互の親縁性
第10章:いくつかの高貴な数の起原について
第11章:立体の位置と獣帯の起原について
第12章:獣帯の分割と星位
第13章:正立体に内接しまた外接する球の計算について
第14章:本書の第一の目的、すなわち正立体が諸軌道のあいだにくることの天文学的証明
第15章:距離の補正と、プロスタパイレシスの差異
第16章:月に関する私見および立体と軌道の素材について
第17章:水星に関する補説
第18章:全体として見たときの、正立体から算出されるピロスタパイレシスとコペルニクのそれとの不一致について。および天文学の精確さについて
第19章:個別的に見たときそれぞれの惑星に残っている不一致について
第20章:軌道に対する運動の比はどうであるか
第21章:諸数値が不整合であることから何が推論されるか
第22章:等化円の中心から見ると惑星が一定の速さで動く理由
第23章:天文学より見た宇宙の始めと終わり、およびプラトン年について
ヨハネス・ケプラー年譜・参考文献
後記 幾何学精神に導かれて(大槻真一郎)
索引
著訳者紹介

Ⅲ ケプラーのことば
■宇宙論への手引き――天体軌道の称賛すべき見事な比と、天の数、大きさ、および周期運動の真正にして適切な根拠について、幾何学の五つの正立体により明らかにされた宇宙形成誌の神秘を含む――(本書、p.1)

■親愛なる読者よ。ごきげんよう。宇宙とは何か。神には、創造のいかなる原因と理法がそなわっているのか。神は、どこから数をとったのか。広大なる天体には、いかなる定規があるというのか。どうして円軌道は六つなのか。どの軌道にどれだけの問題が入り込むのか。木星と火星は第一の軌道をえがいていないのに、どうしてこれほど広くニつ惑星のあいだがあいているのか。そこでピュタゴラスは、このすべての秘密を、五つの立体図形をもってあなたに教えてくれる。いうまでもなく、彼は、われわれの輪廻転生を自ら実例となって示した。まことにコペル二クスという名の宇宙の一層すぐれた観察者が、二千年来の過誤を経て生まれたことこそ、その真相を語っていよう。どうかいまここに発見された収穫を、ドングリのようなものより軽視して捨て去ることのないように。(I.K) (本書、pp.2-3)

■〔読者への序文〕 読者よ、私がこの書で明らかにしようとしたのは、至高至善の創造主が、運行するこの宇宙を創造し天体を配列するにあたっては、ピュタゴラスがプラトンの時代から今日に至るまであまねく知られたあの五つの正立体に注目し、惑星の数と相互の距離の比と運動の理法をそれら〔正立体〕の本性に適合させ給うのだ、とうことであった。しかしあなたをその主題に招待する前に、まずこの書を著した動機と、それから私の計画の進め方といったものを述べておきたい。こういうことは、あなたの理解を促進したり、また私をよく知ってもらうのに役立つだろうと思うからである。

 今から六年前、私があの高名な先生であるミカエル・メストリンのもとで勉強していたチュービンゲン時代のことである。これまでの宇宙論には多くの不都合な点があることに気付いたのがきっかけとなり、私はコペルニクスに傾倒するようになった。先生のメストリンは、講義の中で非常によくコペルニクスのことに触れた。こうしたことから、私は、学士志願者たちの物理学の討論会での席上で、コペルニクスの学説を何度も繰り返し擁護したばかりでなく、第一の運動が地球の自転にともなって起こる、ということについての綿密な議論をまとめあげた。

 すでに私は、コペルニクスが数学的な根拠にもとづいてそうしたように、物理学的、あるいはそういったほうがよければ形而上学的な根拠にもとづき、太陽の〔見かけ上〕運動がやはり同じく地球によって起こることを証明しようとしていた。そしてこの仕事のために、一部はメストリンの話から、一部は独力で、学問的な観点からプトレマイオス説に対してコペルニクス説のもつさまざまな長所を、私はすこしずつ集めた。

 ヨアキム・レティクスは、『第一解説』の中で、〔この問題に関する〕個々の事項を手短に明解に説明してくれていた。だから、この書をもっと早く読んでいたら、こういう仕事からは簡単に解放されていたことであろう。神学の勉強に励みながら、こういう勉強のほうは、片手間にではあれこつこつ続けていたとき、折よく私はグラーツに招かれ、ここで数学官ゲオルグ・スタディウスの後任になった。この地では、数学官としての職責から、私はこれまでより熱心にこの研究に従事した。そこで天文学の原理を説明するのに、以前メストリンから聴いたこと、あるいは自分で思考を積み重ねて得たことのすべてが大いに役立った。そして「うわさの女神は動き出し、動きによって強くなり、歩みながら力を増す」〔『アエネアス』四・一七五〕とヴェルギウス〔前一世紀ローマの有名な詩人、ギリシアのホメロスに比較される〕の詩にあるように、私にとっても、この問題を熱心に思考すると、それがまたさらに進んだ別の思考のもとになって行った。こうして遂に一五九五年には、講義の余暇を数学官としての職責に従いながら有益にすごしたかったので、全精魂を傾けてこの問題に打ち込んだ。

 三つの事柄がいちばん基本的な問題だったから、なぜそれが現にあるとおりで別のありかたをしないのか、その原因を私は辛抱強く探求した。この三つの事柄とは、惑星軌道の数と大きさと運動である。私があえてこの問題に取り組むようになったのは、静止しているもの、すなわち、太陽と恒星とそのあいだの空間が父・子・精霊という〔三位一体〕神と対応して、そこにあの見事な調和があるからだった。私は、この類似を宇宙誌の中でさらに詳しく展開するつもりである。ところで、静止しているものがそういうありかたをする以上、運動するもの〔すなわち惑星〕がやはり何らかの調和あるありかたをするだろう、ということを私は疑わなかった。まず初めに、数に注目して問題に取り組んだ。そして考えてみたのは、ある軌道が、ある軌道が他の二倍、三倍、四倍の大きさか、あるいは結局何かそういう関係になっているか、また、コペルニクス説では任意のある軌道と他の軌道との差異をどれくらいの大きさになっているのか、ということであった。まるで数の遊びのようなこの仕事で、かなりの時間を費やしてしまった。しかし、〔軌道の大きさ〕の比そのものにもその増え方にも、規則性は全く現れなかった。結局、ここから得られた有益なことといったら、〔軌道の〕距離そのものを、コペルニクスが報告しているとおりに、非常に深く記憶に刻み込んだことだけであった。また、私がこうしてさまざまな試行を述べつらねていくと、読者よ、あなたのこの書に寄せる共感の気持は、まるで大海の波の上にいるように、心もとなくあちこちに動揺するかもしれない。しかし最後にそれに疲れ果てたあとは、かえってなおさら快く安全な港へ向かうように、あなたはこの書に説かれた諸原因へとおもむくことになるだろう。〔上に述べたことの〕ほかに有益なことをあげても、これくらいのことしかない。それにもかかわらず、思いなおすやただちに、私を慰め一層よい希望へと勇気づけてくれるものがあった。それは、あとで述べる論拠もそうだが、特に〔惑星〕運動がいつも距離と何らかの比例関係にあるように見えること、そして惑星軌道のあいだに大きな間隔のある場合には、その運動のあいだにも大きな差異があることだった。そこで〔私はこう考えていた〕、もし神が距離を基準にし、それに合わせて運動を軌道に配したならば、どういう仕方にせよ、神はやはり郷里のほうも、何かあるものを基準にしそれに合わせたにちがいない。

 さて、これまでの方法ではうまく行かなかったので、驚くほど大胆な別の方法で解決の手がかりをつかもうとしてみた。木星と火星の軌道のあいだに新しい惑星を仮定し、同じように金星と水星の軌道のあいだにも別の新惑星を仮定したのである。そしてこの二つの惑星は、たまたまとても小さいために目に見えないものとし、この二つに適当な周期を与えた。そうすえれば、〔軌道の大きさ〕の比に何らかの規則性を作り出せるだろう、と思ったからである。その結果として、二つずつの軌道惑星どうしの比は、一定の規則にしたがって、太陽に近い惑星のものほど小さくなり、恒星により近い惑星のものほど大きくなるはずだった。たとえば、火星軌道の大きさに対する火星と地球の距離の差よりも、地球軌道の大きさに対する地球と金星の距離の差のほうが小さい、というふうに。

 しかし、この方法でも、木星と火星のあいだの巨大な空間には、ただ一つの惑星を仮定するだけでは十分ではなかった。というのも、木星軌道のあの新惑星の軌道に対する比は、土星軌道の木星軌道に対する比よりも大きいままであったから。それに、こういう方法では、たとえ何かある一定の比を得ても、計算に全く終わりがなくなるであろう。惑星の数が、恒星の方に向かっても、反対に太陽の方に向かっても、一定ではなくなるのである。なぜなら、前者の場合は、恒星そのものが現れるまで〔の空間〕を、後者の場合は、水星のあと〔から太陽までのあいだ〕に残された空間を、この一定の比に従って無限に分割して〔そこに新惑星を入れて〕行かねばならないだろうから。また、数を一々取り上げてその特性を考えてみても、なぜ無限ではなく、こんなに小数の惑星しか生じなかったのかは、実際のところ、私には推測できなかった。『第1解説』の中で、レティクスは、六という数が神聖なことから、惑星の数が六つであることを論証しているが、その場合の彼の説も理にかなってはいない。なぜなら、宇宙自体の創造について論ずる者は、数から論証を導くべきではないからである。それというのも、数は、宇宙よりあとでできた事物のおかげで、ある特別の意味をもつようになったものだから。

 そこで別な方法を用いた。同じ一つの正方形の中で、任意の惑星の〔太陽からの〕距離はサインの残りとして、この惑星の運動はそのコサインの残りとして表わせないかどうかを調べてみたのである。・・途中省略(pp.30-31:ほぼ1頁分)上のような骨の折れる仕事はほぼ一夏を費やしてしまった。しかし結局。ふとしたきかっけで、私は真実に一層近付いたのである。これまでどんなに苦労しても手の届かなかった問題解決の糸口を偶然見出せたのは、私には神意によるものと思われる。まして、コペニクスの発表したことが本当に真実ならば、私の企てが何とか成功するようにと、いつも神に祈ってきただけに、私はなおさらそう信じたのである。

 さて一五九五年七月九日か十九日のことだった。大会合がつねに〔獣帯〕八つの宮を跳びこなすことと、その大会合が少しずつずれて、一つの三角形から他の三角形へと移って行くようすを、私は受講生に示そうとしていた。そのために同じ一つの円の中に、一つの三角形の終わりが隣り合った次の三角形の始めになるようなにたくさんの正三角形―というよりは、むしろ正三角形のようなもの、といったほうは適切かもしれない―を内接させた。そこで、これらの三角形どうしの交点によって〔初めの円〕より小さな一つの円がえがき出されていた。この円がより小さいのは、正三角形の内接円の半径が外接円の半径の半分だからである。二つの円の(半径)の比は、一見したところ、土星と木星の(軌道の半径の)あの比とほぼ似ているように思われた。しかも土星と木星が第一の惑星であるように、三角形は幾何学図形の中で第一の図形だった。私はただちに正方形をえがいて木星と火星のあいだの第二の間隔を、正五角形で第三のを、正六角形で第四のを試してみた。だが、木星と火星のあいだにある第二の間隔にはやはり見た目にそぐわないところがあったので、正方形を正三角形や正五角形と継ぎ合わせたりした。しかし、一々こういうふうに調べあげていったら、際限がなくなる。

 こうして、この試みは失敗に終わった。しかしこの試みの終わりは、同時に、最後の実り豊かな試みの始まりでもあった。つまり私はこう考えたのである。もし本当に図形どうしのあいだにある序列を維持しようとすれば、この方法では決して太陽までたどりつけないだろう。また、惑星軌道の数はなぜ二十あるいは百ではなく六なのか、その原因もつきとめられないであろう。それにしても、私には幾何学図形は気に入っていた。これは量であり、天体よりも先にできたのだから。実際、量は立体と共に初めに創造され、天体は次の日に創られたのである。

 そこで(私はこう考えた)、コペルニクスが確立した六つの惑星軌道の大きさと相互の比にふさわしい図形を、無限にある他の図形の中から五つだけ見つけ出せないものか。しかもこの五つの図形が、他の図形とくらべて、ある特別の性質をもっていれば、事は思い通りに運ぶのだが。私はそれからさらに考えを押し進めて行った。なぜ、立体的な軌道のあいだに平面図形がなければならないのか。むしろ立法のほうをもってくるべきではないか。すると見よ、読者よ。これが、私の発見であり、この著書全体の主題なのだが、まさしく、幾何学の知識をほんの少しでももっている人にこれだけの言葉を語りきかせると、その人には、ただちに五つの正立体が、その外接球の内接球に対する比と共に思い浮かぶのだ。彼はたちどころに、〔『幾何学原論』の〕第十三巻の命題十八に対するユークリッドのあの補足をまざまざと思い起こす。その箇所では、五つ以上の正立体が存在することも考えだされることも不可能である、と証明されている。驚くべきことに、個々の正立体の優先順位についてはまだ何もわかっていなかったのに、私は、既知の惑星距離から導き出されるいちばん議論の余地の少ない推測を利用して、正立体の配列においては幸いにもすっかり所期の目的を遂げてしまっていた。後で究明された理論にもとづいて問題を取りあつかったときも、正立体の配列については何一つ変えることができなかったほどである。事柄を深く記憶にとどめていただくために、当時思いついたとおりに、その瞬間に言葉に言い表わしたとおりの考えを、私は読者に報告する。

 「地球の軌道は、すべての軌道の尺度である。これに正十二面体を外接させよ。するとこの立体を取り囲むその球が、火星の軌道となるだろう。火星の軌道に正四面体を外接させよ。するとこの立体を取り囲むその球が、木星の軌道となるだろう。木星の軌道に立法体を外接させよ。この立体を取り囲むその球が、土星の軌道となるだろう。また地球の軌道には正二十四面体を内接させよ。この立体に内接するその球は、金星の軌道となるだろう。金星の軌道に正八面体を内接せよ。するとこの立体に内接するその球が、水星の軌道となるだろう」。

 読者は、いまこそ惑星の数の秘密を明かす理法を手中に収めたことになる。  これがきっかけとなって、この苦労の多い仕事は成功した。いまさらに、この言葉の中で私が企てたことにも注目していただきたい。本当に、この発見から私がどれほどの喜びを得たか、言葉に言い表すことはけっしてできないであろう。私は時間を無駄にしたことももはや後悔していなかった。仕事がいやになることもなかった。どんな面倒な計算でも何一つ避けることはなかった。〔上に引いたような〕言葉で言い表した考えがコペルニクスのいう惑星軌道〔のありかた〕と符合するのか、それとも実際には、私の〔発見〕の喜びはむなしく風に吹きとばされてしまうのか。それを確かめるまで、私は計算に日夜明け暮れたのである。果たしてもし事実が私が考えていたとおりであることを発見したら、機会がりしだい、神の英知のこの驚嘆すべき証を出版物にして人々に公表しよう、と私は至善志高の神に誓いを立てた。確かにこの研究は、あらゆる点で完成しているというわけではない。たまたま、私の立てた原理からの帰結として出てくるような若干の事柄が残っているのに、私はそれを発見できずにそのままにしているのかもしれない。しかしたとえそうだとしても、神の御名を称えるために、才能ある他の人々が、私といっしょにできるだけ早くできるだけ多くの事実を明らかにし、全知の創造主のために声をそろえて讃歌をうたってもらいたい。私はそう願っているからである。さて、数日後に事は成就し、それぞれの惑星軌道をはさみながら、一つの立方体が他の立方体の後にどれほどうまくおかれるか、ということを私は発見した。そしてすべての仕事を現在のこのささやかな著作のかたちにまとめあげた。しかもこれは、有名な数学者のメストリンに認められたのである。こういうわけで、親愛なる読者よ、あなたにはわかるだろうが、私は誓いを果たさなければならいから、著書を九年目まで、篋底に蔵するよう要望するあの諷刺詩人の意に従うことは、やはりできないのである。

 これが、私が出版を急いだ一つの理由である。さらに読者から邪推される懸念をいっさい取り除くために、もう一つ別の理由も付け加えたい。そこで、キケロからアルキュタスのあの有名な言葉を引用する。

 「天の高みをきわめ、全宇宙の本性と星々の美しさをすっかり眺めつくしたとしても、そのときの感嘆は私には甘美なものではあるまい。もしあなたが、私の語りかけを聴いてくれる親切で注意深く熱心な読者になってくれるのでなければ」。

 このことがよくわかってくれたとき、もしあなたが親切であれば、非難をさしひかえてくれるだろう。私が非難を予想するのには、理由がないわけではない。しかしともかくこういうことは言わずにおくとしても、それでも、私の考えは確実なのか、私は勝利する以前に凱旋歌を歌ってしまったのではないか、と心配する読者もあろう。したがって結局のところ、あなたが自らこの書を直接手にとってみるようにしていただきたい。そしてわれわれがこれまであつかっている事柄を学び知るように、あなたは、少し前に仮定されたような新しい未知の惑星を見出すことはないであろう。そういう大胆な仮定は、私にも適切だとは思われない。そうではなく、古来知られているあの諸惑星だけを見出すであろう。ただし、それらの位置はほんの少しばかり移されているが。しかし、その代わりに、たとえ馬鹿げているように見えても、直線から成る正立体があいだに入ることによって、その諸惑星は固定されている、ということに気付かれるだろう。だからこれからは、「天が崩壊しないように支えているのは、一体どんな鉤(かぎ)なのだろうか」、と一介の農夫にたずねられても、あなたはそれに答えてやることができるであろう。では、ごきげんよう。(本書、pp.26-36)

■第19章:個別的に見たときそれぞれの惑星に残っている不一致について
 以上に述べたものは、私の訴訟を掩護してくれる一般的な事柄であった。そこで、いまやわれわれは、〔この訴訟において〕何かもっと力強く弁護することの点があるかどうかを、個別的に見てみよう。はじめに土星を取りあげてみたい。土星の距離には確かに大きな補正がなされはしたが、それでもこの補正は、プロスタパイレシスの角度において単に四一分を減じたにすぎない。実際、土星の巨大な距離が観測のときの誤差を生じやすくする原因とはなるけれども、それと同時に、たとえ距離における誤差がめだっても、プロスタパイレシスの角度では、思いのほか小さなごくわずかの差異しか引き起こさない。ただし、天文学者たちが、この星の運動の仕方をもまた非常に正確に算定しているわけではないことは、去年の冬だけでも確証できたはずである。

 というのも、一五九四年十一月二日(十二日)、土星はちょうど獅子座の首と心臓のあいだに見られたが、計算によると、この星はそれと同じ場所には去年の十月二十一日(三十一日)に来るはずだったからである。相異は、黄経においてプラスマイナス三十七分になる。とりあえず距離を訂正してみて、コペルニクスのものとくらべたときの土星のプロスタパイレシスの不一致が、この数量をこえなければ、天文学者たちは、大いに満足できる結果が得られたと思うべきである。

 木星では、当然のことながら、何もこれ以上に望むことのできるものはない。そこでは差異がわずかだからである。すなわち、それは六分の一度より小さい。

 だが、火星においては、やはり差異がニ分の一度(つまり三〇分)もあるが、これは、別に驚くにあたらないし、私を動揺させることもない。むしろ、差異がこれ以上でないことのほうが、不安を感じさせる。それというのも、一五七七年度版天文年鑑の序言において、この星の実際の運行と計算上のそれとの誤差を二度の範囲内に限定することはできない、とメストリンが証言しているからである。

 さらには、内惑星の金星と水星が問題になる。それらの惑星の軌道の算定は、夕暮どきの観測にもとづいてするよりも、最大離角にもとづいてするほうが容易だから、内惑星は外惑星にくらべ、何か有利な点を持っているように思われるかもしれないが、それにしても私は(最大離角の)観測の方法そのものを疑うのである。

 けれども、これらの惑星において、太陽も月も免れることのできない物理的な視差効果と蒸発気の密度のため、天文学者も時に誤りをおかさないものかどうか、という問題を考慮してみることは、天文学者たち自身にまかせることにしたい。ともかくメストリンは、『日食月食論』の命題五十八において、金星については、地平線の近く、この星の太陽からの距離が実際の距離よりも非常に見えたことが珍しくない、と断言している。水星については、一層そういうことが言えるであろう。

 というのも、この星は、ほとんどいつでも、太陽光線の下にあって、時おりそこから脱するにしても、それでも必ず地平線の近くで、介在するおびただしい蒸発気を通じ、初めてわれわれの視野に入ってくるものだからである。また、金星の場合は、この星の近くに同時に現われる恒星がその観測を助けるにしても、水星のほうは、それ自身が識別されるのはまれな上に、その近くに恒星は認められることは一層まれなので、それだけになおさら、しばしば観測に誤りが生じやすい。今日でもこういうことが起こる以上は、古代の天文学のどんな大家にも、やはり同様のことが起こった可能性があると思われる。実際、彼らが読者に水星について教えてくれないという事実そのものによって、内惑星の測定に欠陥があったのではないか、という疑いが一層強くなる。水星のために何か欠陥は生じたときでも、古人はそれに気付きもしなかったし、訂正も行わなかったということが、その証拠である。こういうわけだから、古人のものを読むときは、引き合いに出されている個々の観測の手段と方法が、上のような誤りにおちいりやすいものでなかったどうかを、特によく気をつけてみなければならないと思う。

 さらに、〔コペル二クスの〕仮説の根拠においても、この二つの惑星については多くの事柄が依然として不確かなまま残されているのではないか、という私の心配も、決して不当なものではないからである。(先に引用したレティクスの書簡の後のメストリンの書簡からも推定されるように)コペルニクスは、内惑星についての理論を訂正するときに、実際の観測から導かれる必然的な結果よりも、プトレマイオスの教説のほうに従った。このことでコペルニクスが非難をこうむることのないように配慮して、レティクスは、その『第一解説』の中で次のように忠告した。すなわち観測の結果どうしも訂正せざるを得なくなるまでは、古人の足跡をなるべく慎重に踏襲すべで、それを軽々しく変更してはならない、と。だから、それほど正確な観測結果が得られなかったことが、おそらく、非常に賢明な専門家〔コペルニクス〕にとっても、〔既知のデータを〕自分の学説に適応させることのほかには、これらの内惑星に関して、何もそれ以上に探求しようとはしなかったことのかなり大きな理由であった。

 したがって、金星に〔プロスタパイレシス〕角度の大きな相異は認められるのは、私が〔前章で〕一般論として述べた事柄〔読者はそれをよくおぼえていてほしい〕を別にすれば、やはり何より先ほど言及したあのさまざまな障害のせいだったのだと思っていただきたい。。そうすれば、読者は、個々の事柄をよく調べた後には、平静な気持ちで、不一致がいくら大きくても、それを難なく乗り越えて行くことができるだろう。この点に関しては、コペルニクスの〔金星のプロスタパイレシスの〕数値が、月を計算に入れたときと入れないときの、それぞれの場合に出てくる角度の平均値であることが、読者にとって大きな慰めとなるだろう。

 実際のところ、もし地球の軌道に月の系を加えるなら、正二十面体は金星を地球からコペニクスの示した以上に遠去けてしまう。が、もし逆に月を除いて地球軌道〔の厚さ〕をより薄くすれば、正二十面体は金星を地球にあまりにも接近させ、金星の軌道をコペルニクスの説よりも大きくしてしますことになる。だから、コペルニクスの説をあくまでまもらなければならないとしたら、月よりも小さい〔軌道をもつ〕ある天体を〔地球の周囲に〕想定してみて初めて、事がうまく行くことになるであろう。

 ところで、水星については、すでにかなり多くのことを述べておいたが、さらになおいろいろなことを付け加えることができよう。だから、何かまだ不十分なことがあれば、公正な読者よ。あなたがそれを解決し弁明してくれるだろう、と思う。それでも、水星の運動の相異は〔この星に〕適切なものとは思われないので、この相異については、大いに議論してみたい。驚いたことに水星にはわずか一度の差異しか生じないから、運行の仕方は金星よりも規則正しいことになる。しかしそれでも、水星はいつも人を欺くような本性をもっている。占星術師たちの評判を落とすことがもっとも多く、また大気現象のあらゆる予測を妨げる一つのものは、確かに、この水星なのである。実際、風を予報するとき(水星が適当な場所に位置するごとに風を引き起こすことは、全く確実なのである)、しばしば一定の日数だけずれるから、それによって、天文年鑑に誤って示された水星の軌道を、私はまず誤たずに訂正できるほどである。そこで、天文学者のだれかがあまり念入りにこの惑星の誤差の研究に専心しているのを認めたら、その人に向かって私は次のように忠告したい。

 すなわち、その時間をもっとうまく活用するために、むしろ地球とその周囲を回る非常に明るい星である月、われわれは、この二つのうち初めの星を足下に、後の星を目で最も近くにとらえているのだが、つまりこういう星のほうを観察し、この星の運動において、さらにまた日食月食に関し、われわれはおかしている誤りをできるだけなくし、そうした上で初めて、水星の問題に精力をふり向けるように、と。

 もし地球と月の運動に関する誤差を許容してもよいのなら、そのあいだは、われわれからより遠く離れてもいるし、ほとんどいつも太陽の下に隠れている水星における誤差は、黙認するのがなお一層ふさわしいことである。

 再び前章と同様にここでここでも、締めくくりとして私は書簡の一部を書き添えておきたい。この書簡は、メストリンが私に送ってよこしたものである。これを選んだのは、二つの理由からである。すなわち、第一に、これがぜひ必要な事柄についてあなたを教えさとしてくれるものがあるから、第二は、至るところで、この章の説を裏付けてくれているからである。すなわち、メストリンは次のように言っている。

「水星の動きは実に奇妙なので、私もそれにあやうく欺かれてしまうところだった。それも不思議ではない。何しろ、水星の問題は、コペルニクスやラインホルトにとってさえ、全く手にあまりものだったということに私は気付いていたからである。コペルニクス自身が(『天体の回転について』第五巻第三十章で)水星には多くの謎めいた性質があって、その運動を研究するのに、非常に苦労したことを認めている。そこで、彼は、水星に関して得られた自分自身の観測資料をいっさい引用せずに、ニュルンベルクのベルンハルと・ヴァルターからそれを借用したが、それはともかく、このほか、その遠地点の位置を確定するのにも、コペルニクスは自己矛盾をきたしている。すなわち、彼は(第二十六章では)、アントニヌス帝の初年、キリスト紀元およそ一四〇年ころの水星の遠地点の位置を、プトレマイオスの観測資料に従い、天秤宮の一〇度、恒星天球下で、白羊宮の最初の星から一八三度二〇分のところに認めている。他方(第二十九章では)、プトレマイオス・ピラデスポス王の二十一年のこの星の遠地点の位置を、同じく一八三度のところに置いている。

 以上では、この水星の遠地点は、まるでそのあいだに四百年にわたって、恒星天球の下でじっと静止していたかのようである。それなのに(第三十章の末尾では)、コペルニクス自身、それが六十三年間に一度ぶん動いたと考えている。ただし、運動の仕方が規則的でありさえしたら、という条件を付け加えているが、ラインホルトが同様の困難におちいって当惑していたことは、プルテニクス表の計算が示している。そこから明らかになるのは、ラインホルトが、プトレマイオス・ピラデルボス王の時代の水星の遠地点の位置を、ちょうどコペルニクスと同じころ、すなわち白羊宮の最初の星から一八三度二〇分としたことである。しかしプトレマイオス二世の時代には、水星の遠地点は、プトレマイオスが明らかにし、コペルニクスが再び採用した観測結果とはかなり隔たったところにある。つまり、そのときの水星の遠地点の位置を計算すると、一八三度二〇分、白羊宮の一〇度ではなく、恒星天球下では一八八度五〇分、天秤宮の一五度三〇分になるのである。このために、(第一五章の図表Ⅴにある水星の項に見える)私のあの数値も実際にはプトレマイオスのとき〔の〕に合わせてある。ただし、その他の数値のようにすべての点でプルテニクス表の計算に符号しているのではなく、プトレマイオスの観測資料のほうに符号している。というのも、コペルニクスもその観測資料を保持し、それに従ってそこから同じ数値を算出したからである。私は、われわれの時代、すなわちコペニクスの時代に合わせてこれらの数値をすっかり異なったものになってしまうだろうし、またコペルニクスの学説における数値は、〔プトレマイオスのもの〕より新しい観測によって吟味され確認されたものではなかったからである。

 もっとも(私が〔講義〕のとき直接みんなの前で言ったのを、あなたは思い出すことはできるだろうが、そのとき言ったように)、私としては、コペニクスには、この算定の基礎を、古い観測からではなく、できれば新しい観測からとってほしかった。というのも、コイぺルニクスが(第五巻第三十章フォリオ一六九bの終わりから七行目で)、プトレマイオスのときから今日まで軌道を同じ大きさのままにしてきたことを認めざるを得ないと思う、と言ったとき、あの〔新しい観測に対する〕要請は、途方もなく大きいものだったからである。実際、地球の離心率が減少したことだけによっても、〔各惑星軌道の大きさとして〕これまでのとは異なる数値が必要とされるのである。

 またレティクスは『解説』の中で、木星と同じく水星においては、どんな離心率の変化も認められない、と言っているが、それも真実ではない。というのも、〔コペルニクスの時代の観測資料によれば、〕水星は、〔木星と〕と同じように、その遠地点によって太陽の遠地点のわきを掩護していないからである。その上、プトレマイオスの観測資料はかなり粗雑で区々たるものだったから、より精確な観測によって全面的に訂正しなければならなかった。しかしいまとなっては、こういうことを嘆いてみても無益なことである。あなたの課題については、もしこれらの数値がともかくあなたの考えに符号するものなら、あなたは自分の務めを完全に果たしたものと思ってよい。レティクスあなたの話によるとその書簡の中でコペルニクスがしていたように、非常に深い洞察力にみちたこの発見をきっかけとして、いまなおはっきりせず、天文学者仲間を少なからず悩ませているほかの問題も、完全に明らかにされる日がやがてまもなくおとずれるだろう、という最も確実な希望を信じて、あなたは、自らを大いに祝福してよいのである」。(本書、pp.265-273)

■第19章:個別的に見たときそれぞれの惑星に残っている不一致について
 以上に述べたものは、私の訴訟を掩護してくれる一般的な事柄であった。そこで、いまやわれわれは、〔この訴訟において〕何かもっと力強く弁護することの点があるかどうかを、個別的に見てみよう。はじめに土星を取りあげてみたい。土星の距離には確かに大きな補正がなされはしたが、それでもこの補正は、プロスタパイレシスの角度において単に四一分を減じたにすぎない。実際、土星の巨大な距離が観測のときの誤差を生じやすくする原因とはなるけれども、それと同時に、たとえ距離における誤差がめだっても、プロスタパイレシスの角度では、思いのほか小さなごくわずかの差異しか引き起こさない。ただし、天文学者たちが、この星の運動の仕方をもまた非常に正確に算定しているわけではないことは、去年の冬だけでも確証できたはずである。

 というのも、一五九四年十一月二日(十二日)、土星はちょうど獅子座の首と心臓のあいだに見られたが、計算によると、この星はそれと同じ場所には去年の十月二十一日(三十一日)に来るはずだったからである。相異は、黄経においてプラスマイナス三十七分になる。とりあえず距離を訂正してみて、コペルニクスのものとくらべたときの土星のプロスタパイレシスの不一致が、この数量をこえなければ、天文学者たちは、大いに満足できる結果が得られたと思うべきである。

 木星では、当然のことながら、何もこれ以上に望むことのできるものはない。そこでは差異がわずかだからである。すなわち、それは六分の一度より小さい。

 だが、火星においては、やはり差異がニ分の一度(つまり三〇分)もあるが、これは、別に驚くにあたらないし、私を動揺させることもない。むしろ、差異がこれ以上でないことのほうが、不安を感じさせる。それというのも、一五七七年度版天文年鑑の序言において、この星の実際の運行と計算上のそれとの誤差を二度の範囲内に限定することはできない、とメストリンが証言しているからである。

 さらには、内惑星の金星と水星が問題になる。それらの惑星の軌道の算定は、夕暮どきの観測にもとづいてするよりも、最大離角にもとづいてするほうが容易だから、内惑星は外惑星にくらべ、何か有利な点を持っているように思われるかもしれないが、それにしても私は(最大離角の)観測の方法そのものを疑うのである。

 けれども、これらの惑星において、太陽も月も免れることのできない物理的な視差効果と蒸発気の密度のため、天文学者も時に誤りをおかさないものかどうか、という問題を考慮してみることは、天文学者たち自身にまかせることにしたい。ともかくメストリンは、『日食月食論』の命題五十八において、金星については、地平線の近く、この星の太陽からの距離が実際の距離よりも非常に見えたことが珍しくない、と断言している。水星については、一層そういうことが言えるであろう。

 というのも、この星は、ほとんどいつでも、太陽光線の下にあって、時おりそこから脱するにしても、それでも必ず地平線の近くで、介在するおびただしい蒸発気を通じ、初めてわれわれの視野に入ってくるものだからである。また、金星の場合は、この星の近くに同時に現われる恒星がその観測を助けるにしても、水星のほうは、それ自身が識別されるのはまれな上に、その近くに恒星は認められることは一層まれなので、それだけになおさら、しばしば観測に誤りが生じやすい。今日でもこういうことが起こる以上は、古代の天文学のどんな大家にも、やはり同様のことが起こった可能性があると思われる。実際、彼らが読者に水星について教えてくれないという事実そのものによって、内惑星の測定に欠陥があったのではないか、という疑いが一層強くなる。水星のために何か欠陥は生じたときでも、古人はそれに気付きもしなかったし、訂正も行わなかったということが、その証拠である。こういうわけだから、古人のものを読むときは、引き合いに出されている個々の観測の手段と方法が、上のような誤りにおちいりやすいものでなかったどうかを、特によく気をつけてみなければならないと思う。

 さらに、〔コペル二クスの〕仮説の根拠においても、この二つの惑星については多くの事柄が依然として不確かなまま残されているのではないか、という私の心配も、決して不当なものではないからである。(先に引用したレティクスの書簡の後のメストリンの書簡からも推定されるように)コペルニクスは、内惑星についての理論を訂正するときに、実際の観測から導かれる必然的な結果よりも、プトレマイオスの教説のほうに従った。このことでコペルニクスが非難をこうむることのないように配慮して、レティクスは、その『第一解説』の中で次のように忠告した。すなわち観測の結果どうしも訂正せざるを得なくなるまでは、古人の足跡をなるべく慎重に踏襲すべで、それを軽々しく変更してはならない、と。だから、それほど正確な観測結果が得られなかったことが、おそらく、非常に賢明な専門家〔コペルニクス〕にとっても、〔既知のデータを〕自分の学説に適応させることのほかには、これらの内惑星に関して、何もそれ以上に探求しようとはしなかったことのかなり大きな理由であった。

 したがって、金星に〔プロスタパイレシス〕角度の大きな相異は認められるのは、私が〔前章で〕一般論として述べた事柄〔読者はそれをよくおぼえていてほしい〕を別にすれば、やはり何より先ほど言及したあのさまざまな障害のせいだったのだと思っていただきたい。。そうすれば、読者は、個々の事柄をよく調べた後には、平静な気持ちで、不一致がいくら大きくても、それを難なく乗り越えて行くことができるだろう。この点に関しては、コペルニクスの〔金星のプロスタパイレシスの〕数値が、月を計算に入れたときと入れないときの、それぞれの場合に出てくる角度の平均値であることが、読者にとって大きな慰めとなるだろう。

 実際のところ、もし地球の軌道に月の系を加えるなら、正二十面体は金星を地球からコペニクスの示した以上に遠去けてしまう。が、もし逆に月を除いて地球軌道〔の厚さ〕をより薄くすれば、正二十面体は金星を地球にあまりにも接近させ、金星の軌道をコペルニクスの説よりも大きくしてしますことになる。だから、コペルニクスの説をあくまでまもらなければならないとしたら、月よりも小さい〔軌道をもつ〕ある天体を〔地球の周囲に〕想定してみて初めて、事がうまく行くことになるであろう。

 ところで、水星については、すでにかなり多くのことを述べておいたが、さらになおいろいろなことを付け加えることができよう。だから、何かまだ不十分なことがあれば、公正な読者よ。あなたがそれを解決し弁明してくれるだろう、と思う。それでも、水星の運動の相異は〔この星に〕適切なものとは思われないので、この相異については、大いに議論してみたい。驚いたことに水星にはわずか一度の差異しか生じないから、運行の仕方は金星よりも規則正しいことになる。しかしそれでも、水星はいつも人を欺くような本性をもっている。占星術師たちの評判を落とすことがもっとも多く、また大気現象のあらゆる予測を妨げる一つのものは、確かに、この水星なのである。実際、風を予報するとき(水星が適当な場所に位置するごとに風を引き起こすことは、全く確実なのである)、しばしば一定の日数だけずれるから、それによって、天文年鑑に誤って示された水星の軌道を、私はまず誤たずに訂正できるほどである。そこで、天文学者のだれかがあまり念入りにこの惑星の誤差の研究に専心しているのを認めたら、その人に向かって私は次のように忠告したい。

 すなわち、その時間をもっとうまく活用するために、むしろ地球とその周囲を回る非常に明るい星である月、われわれは、この二つのうち初めの星を足下に、後の星を目で最も近くにとらえているのだが、つまりこういう星のほうを観察し、この星の運動において、さらにまた日食月食に関し、われわれはおかしている誤りをできるだけなくし、そうした上で初めて、水星の問題に精力をふり向けるように、と。

 もし地球と月の運動に関する誤差を許容してもよいのなら、そのあいだは、われわれからより遠く離れてもいるし、ほとんどいつも太陽の下に隠れている水星における誤差は、黙認するのがなお一層ふさわしいことである。

 再び前章と同様にここでここでも、締めくくりとして私は書簡の一部を書き添えておきたい。この書簡は、メストリンが私に送ってよこしたものである。これを選んだのは、二つの理由からである。すなわち、第一に、これがぜひ必要な事柄についてあなたを教えさとしてくれるものがあるから、第二は、至るところで、この章の説を裏付けてくれているからである。すなわち、メストリンは次のように言っている。

「水星の動きは実に奇妙なので、私もそれにあやうく欺かれてしまうところだった。それも不思議ではない。何しろ、水星の問題は、コペルニクスやラインホルトにとってさえ、全く手にあまりものだったということに私は気付いていたからである。コペルニクス自身が(『天体の回転について』第五巻第三十章で)水星には多くの謎めいた性質があって、その運動を研究するのに、非常に苦労したことを認めている。そこで、彼は、水星に関して得られた自分自身の観測資料をいっさい引用せずに、ニュルンベルクのベルンハルと・ヴァルターからそれを借用したが、それはともかく、このほか、その遠地点の位置を確定するのにも、コペルニクスは自己矛盾をきたしている。すなわち、彼は(第二十六章では)、アントニヌス帝の初年、キリスト紀元およそ一四〇年ころの水星の遠地点の位置を、プトレマイオスの観測資料に従い、天秤宮の一〇度、恒星天球下で、白羊宮の最初の星から一八三度二〇分のところに認めている。他方(第二十九章では)、プトレマイオス・ピラデスポス王の二十一年のこの星の遠地点の位置を、同じく一八三度のところに置いている。

 以上では、この水星の遠地点は、まるでそのあいだに四百年にわたって、恒星天球の下でじっと静止していたかのようである。それなのに(第三十章の末尾では)、コペルニクス自身、それが六十三年間に一度ぶん動いたと考えている。ただし、運動の仕方が規則的でありさえしたら、という条件を付け加えているが、ラインホルトが同様の困難におちいって当惑していたことは、プルテニクス表の計算が示している。そこから明らかになるのは、ラインホルトが、プトレマイオス・ピラデルボス王の時代の水星の遠地点の位置を、ちょうどコペルニクスと同じころ、すなわち白羊宮の最初の星から一八三度二〇分としたことである。しかしプトレマイオス二世の時代には、水星の遠地点は、プトレマイオスが明らかにし、コペルニクスが再び採用した観測結果とはかなり隔たったところにある。つまり、そのときの水星の遠地点の位置を計算すると、一八三度二〇分、白羊宮の一〇度ではなく、恒星天球下では一八八度五〇分、天秤宮の一五度三〇分になるのである。このために、(第一五章の図表Ⅴにある水星の項に見える)私のあの数値も実際にはプトレマイオスのとき〔の〕に合わせてある。ただし、その他の数値のようにすべての点でプルテニクス表の計算に符号しているのではなく、プトレマイオスの観測資料のほうに符号している。というのも、コペルニクスもその観測資料を保持し、それに従ってそこから同じ数値を算出したからである。私は、われわれの時代、すなわちコペニクスの時代に合わせてこれらの数値をすっかり異なったものになってしまうだろうし、またコペルニクスの学説における数値は、〔プトレマイオスのもの〕より新しい観測によって吟味され確認されたものではなかったからである。

 もっとも(私が〔講義〕のとき直接みんなの前で言ったのを、あなたは思い出すことはできるだろうが、そのとき言ったように)、私としては、コペニクスには、この算定の基礎を、古い観測からではなく、できれば新しい観測からとってほしかった。というのも、コペルニクスが(第五巻第三十章フォリオ一六九bの終わりから七行目で)、プトレマイオスのときから今日まで軌道を同じ大きさのままにしてきたことを認めざるを得ないと思う、と言ったとき、あの〔新しい観測に対する〕要請は、途方もなく大きいものだったからである。実際、地球の離心率が減少したことだけによっても、〔各惑星軌道の大きさとして〕これまでのとは異なる数値が必要とされるのである。

 またレティクスは『解説』の中で、木星と同じく水星においては、どんな離心率の変化も認められない、と言っているが、それも真実ではない。というのも、〔コペルニクスの時代の観測資料によれば、〕水星は、〔木星と〕と同じように、その遠地点によって太陽の遠地点のわきを掩護していないからである。その上、プトレマイオスの観測資料はかなり粗雑で区々たるものだったから、より精確な観測によって全面的に訂正しなければならなかった。しかしいまとなっては、こういうことを嘆いてみても無益なことである。あなたの課題については、もしこれらの数値がともかくあなたの考えに符号するものなら、あなたは自分の務めを完全に果たしたものと思ってよい。レティクスあなたの話によるとその書簡の中でコペルニクスがしていたように、非常に深い洞察力にみちたこの発見をきっかけとして、いまなおはっきりせず、天文学者仲間を少なからず悩ませているほかの問題も、完全に明らかにされる日がやがてまもなくおとずれるだろう、という最も確実な希望を信じて、あなたは、自らを大いに祝福してよいのである」。(本書、pp.265-273)

Ⅳ ケプラー年譜(本書、pp.346-350)

1547年 ・ケプラーの父、ハインリッヒ誕生。
1571年 ・ヨハネス・ケプラー、ドイツのヴァイルに誕生(十二月二十七日)
1576年 ・「祖父母のもとにあずけられる」。
1581年 ・「田舎で重労働に従事させられる」。
1584年 ・神学校に入学。
1589年 ・チュービンゲン大学に入学。
・このころ、父死去
1593年 ・グラーツ州立学校の数学教師となる
1596年 ・『宇宙の神秘』刊行
1597年 ・バーバラ・ミューレックと結婚
1599年 ・フェルディナント大公のルター派一掃政策のため、グラーツから追放さる。学校閉鎖
1600~1年 ・べナテク、プラハ滞在。ティコとケプラーの共同研究
1601年 ・ティコの後継者(帝国数学官)に任命される。
1602年 ・『占星術のいっそうの確実な基礎について』刊行
1604年 ・新星の出現(ケプラー新星)。
・『天文学の光学的部分』(Astronomiae pars optica)刊行。
1605年 ・『日食について』(De solis deliquio)刊行。
1606年 ・『新星について』(De stellsa nova)
・『年代学集林』(Sylva chronologica)
1607年 ・『一六〇七年に出現した彗星に関する報告』(Bericht von dem im Jahre 1607 erschienenen Kometen)。
1609年 ・『新天文学』刊行(第一、二法則の公表)。
・『レスリンの論証に対する回答』(Antwort auf Roeslini Diskurs)。
1610年 ・『星界からの使者との対話』(Dissertatio cum nuncio sidereo)刊行。
1611年 ・妻の病死
・『屈折光学』刊行。
・『観測された木星の四つの衛星についての解説』(Narratio de observatis quatuor Iovis satellitibus)刊行。
・『新年の贈物つまり六角形の雪について』(Strena seu de nive sexangula)
1612年 ・ルドルフ二世死去。ケプラー、プラハを追われてリンツへ。
1613年 ・スザンナ・ロイティンガーと結婚。
1614年 ・『キリストの生誕年について』(De Anno Natali Christi)刊行。
1615年 ・母親への迫害始まる。
・『酒樽の立体幾何学』刊行。
・『年代学選集』(Eclogae chronicae)刊行。
1616年 ・『アルキメデスの測定術』(Messekunst Archimedis)刊行。
1618年 ・三十年戦争始まる。
1619年 ・『宇宙の調和』刊行(第三法則の公表)。
・『彗星に関する三つの小論』(De cometis libelli tres)。
1620年 ・母親、魔女の容疑で逮捕される。
1621年 ・母親、釈放後、死去。
・『コペルニクス天文学概要』の出版完結。
・『宇宙の神秘』第二版刊行。
1624年 ・翌年にかけて、対数に関する著作を刊行(Chilias logarithmorum 1624 : Supplementum chiladis Logarithmorum 1625)。
(猪野注):この著作に関しては、山本義隆『小数と対数の発見』(日本評論社、2018)の第7章「ケプラーと対数」pp.170-189に詳しく論述されている。
1625年 ・『ルドルフ表』印刷。
1626年 ・リンツのヴァレンシュタイン公のもとに職を得る。
1630年 ・最後の著作『夢』に取り組む。
・ライプツィヒ、ニュルンベルクと旅を続け、十一月二日レーゲンスブルクに到着。三日後発熱。十一月十五日死去。十九日共同墓地に埋葬される。
1634年 ・『夢』の刊行。
 

Ⅴ おわりに
 ヨハネス・ケプラー(1571-1630)が弱冠25歳時の刊行書(1596)である。数学者ケプラーは、幾何学と惑星の相関等を、なにやら数と図形に取りつかれたように語っている。上記に再現したのは、本書全体の序論(読者に対する序論)の全文であるが、やはり人間ケプラーの肉声と息づかいが聞こえてくる。いちおう、いまから見れば、正しくはない長い全文を字図だけは追いかけたが、正直言って、かなりしんどい読み込みであった。その目的は、ケプラーの肉声を聞きたかったことと、山本氏の書をさらにより深く理解し把握すること、の二つであり、これに尽きる。それにしてもケプラーは58歳で死んでいる。