和田耕作『石原 純-科学と短歌の人生』(ナテック、2003年8月1日)
1. はじめに
石原純(1881-1947)は怪物である。日本における最初の理論物理学者・歌人・新短歌の提唱者・科学思想家・一級のジャーナリストであった。名実ともに文科・理科を融合する科学・文学活動を展開した人物である。石原純は国際的水準の量子論・相対論の研究者として日本の近代物理学史に輝いている。さらに本書で詳細に披露された短歌世界での活動の全貌を知ると、石原純の人生はまさに怪物と言うに相応しい。
1881年1月14日、元三河西藩士でキリスト教長老派に属する牧師の父・石原量、母・千勢の長子として東京の本郷4丁目に生まれた。量の布教活動のため各地を転々した後、1902年9月東京帝国大学理科大学理論物理学科に入学し、1906年7月卒業しただちに大学院に入学する。大学時代から短歌に強い関心を示し旺盛な創作活動を生涯続ける。1908年3月大学院を退学し各種の学校の講師を経て、1911年7月東北帝国大学理科大学助教授、翌年12年3月~1914年5月まで英・独・仏へ留学する。帰国直後、教授となり、1916年、日本最初の量子論・相対論の研究で理学博士となる。1923年8月、歌人原阿佐緒との恋愛事件により退職。岩波書店の店主岩波茂雄の支援を得て『思想』への寄稿と各種の雑誌、とくに、1931年創刊『科学』の責任編集者として健筆。アインシュタインの来日(1922年11月~12月29日)に同行し相対性理論の解説と普及により日本における押しも押されぬ科学思想啓蒙家となる。
この科学思想啓蒙にかかわる一方で、大学生時代から異常なる関心をもった短歌創作にのめり込み「新短歌」を提唱する。1930年代から40年代初頭の石原純の執筆活動は、科学論、文明論、人生論、恋愛論におよぶ。科学の国家統制の時代には最後まで科学者の科学的精神・合理的精神を武器に一貫した批判を加え続けた。1945年12月8日早朝、進駐軍のジープに跳ねられ重症。1947年1月19日、脳内出血で死去。66歳の生涯であった。
本書はこれまで散発的にしか知られていなかった「新短歌」(口語自由律短歌)の先駆者として側面と科学思想の啓蒙活動の知的営みに全精神を傾けた石原純を論じた「本邦最初の単行本」である。奇しくも今年(2003年)はアインシュタイン来日80年、石原純「新短歌」提唱80年の記念すべき年である。
本書の著者(和田耕作氏)はこのことを用意周到に意識・準備し、10年近い年月をかけ書き付けてきたものを集大成したものである。科学・文学・社会の思想史が交錯する幅広い学問領域を考察し、人間・石原純の全貌を明らかにした画期的な労作である。
2.本書の構成と項目
さて、本書の構成と項目(第一部~第五部)を見ることにする。序によると、本書は大きくわけて二つにわけられる。第一部は石原純が日本の理論物理学の発展と科学の啓蒙に果たした役割を描き、第二部~第五部までは膨大な短歌群を再現し「口語自由律短歌の先駆者」としての石原純の全貌を描く。
著者の「あとがき」によると、1995年7月から没後50年を目標にして、月刊口語短歌雑誌『未来山脈』(光本恵子編集、未来社発行)に75回にわたって連載したものだ。[付録1]~[付録6]は先行研究を十分に踏まえ現在の時点で最も詳細に完備されている。
序
第一部アインシュタインとともに-物理学者の恋と短歌
第二部 新短歌の創造に向かって-『日光』『芸術と自由』の時代
第三部 新短歌の黄金時代-『短歌創造』『立像』の時代
第四部 科学と芸術とに生きるよろこび-『新短歌』の時代(一)
第五部「自由」への希求と「自然」というやすらぎ-『新短歌』の時代(二)
[付論]石原純の児童科学書とその現代的意義について
[付録1]石原純自筆年譜
[付録2]石原純主要著作目録
[付録3]石原純主要研究文献目録
[付録4]雑誌『日光』における石原純著作目録
[付録5] 雑誌『立像』における石原純著作目録
[付録6]雑誌『新短歌』における石原純著作目録
あとがき
3.評者の所感
各部の項目は詳細微細。しかし煩雑なので省略する。本書を通読し石原の短歌活動の詳細な探求ぶりにはただただ驚くばかりである。石原のほとんどの短歌作品と創刊雑誌を入手し丹念に調べ上げるなど並々ならぬ執念の作品である。物理学出でありながら日本の短歌・文学・思想の世界に深い知識・洞察・思索を表現する著者は紛れもない日本思想史家の誕生である。
それにしても著者の執念に満ちた資料収集ぶりには驚くばかりである。そのいったんを示しておこう。本書には貴重な短歌雑誌・単行本・学術雑誌等々の現物写真が52点が掲載されている。いずれも著者の和田文庫となっている。ここに掲載されたのはごく一部であることを考えると、著者の資料収集の執念ぶりがわかるというものである。
著者は第二部以降で石原純の短歌活動の全貌に迫る。『日光』『渦状星雲』『芸術と自由』『三角州』『スバル』『短歌創造』『短歌研究』『立像』『日本短歌』『新短歌』『國風』など主要な短歌雑誌への寄稿あるいは創刊にかかわる石原純の短歌人生を詳細に追いかける。
特筆すべきは、一般にはほとんど知られていない石原純の短歌作品の全文が示されていることである。これらの短歌のひとつひとつを注意して心傾けながら読み進めると、苦悩する石原純の心の内を見るようである。さらに科学史・科学教育の観点から注目することは、石原純が多数の「児童科学書」を書いていることである。42歳過ぎから公職を捨て在野での短歌創作・科学啓蒙・科学雑誌・事典編集等々の活動を知ると、石原純はまさに「多情多恨の物理学者、石原純、このひとは今の学会にはその類を見いだすことの出来ない何となく懐かしい一種の怪物であった」(小林勇)。同感である。
すこし実際に石原の短歌を読んで見よう。次の短歌は1905年(明治38)ころ、他界した父・量を偲んで読んだ石原24歳時の貴重な作品である。この歌を読む直前、石原は父の死の心労などもあり神経衰弱になり一時大学を休学していた。
・時さればかなしきこころ忘れんと思ひ待ちにし春は来にけり
・こふれども父はいまさず山吹の花しさきつつちりにけるかも
・父が病ひ看むと我がゆく夜の途の桜の落葉霜に冷えたり
・病む父に一夜を侍り霜は踏む朝の帰りに世らは静けし
・三つの残る柿を落として霜月に病みていまさぬ父を恋ひけり
・母ゆきて十まり八とせのその冬の霜月がなかに父病みませり
・歌の日をつどひゆかず二人病みし家居の裏に落葉燃しけり
次は石原が新短歌を提唱した時代の雑誌『芸術と自由』に毎号のように発表した新短歌作品の一部である。著者によれば、石原の新短歌理論は優れてはいるが、その理論とともに実作のひとつひとつを十分に検討する必要があると力説する。その徹底ぶりが伺える。評者がなにがしかの印象を受けた歌をいくつかあげておく。1927年(昭和2)~28年(同3)、歌人・原阿佐緒との関係が微妙に崩れかけていた46~47歳の時の作品である。
○秋になって
・暴風雨のあとの
火のやうに焼けたゆふ空。
世界はなぜ燃えあがらないのだ。
・星がきらきらと輝く。
あそこにも
電子分裂が行われているんだ。
・秋になって
ごい鷺がしきりに鳴く。
ひとつの星のさみしくなつかしい夜である。
・うつくしい思索の世界、
せめて秋の夜を
わたしはしみじみとそこに住みたい。
○しろい感触
・ほんとうににがい
虐げられたおまへの過去だ。
だが、もうすくすくと伸びても
いいんじゃないか。
・へんに憂鬱になってはいけない。
おまへもすこし
聖安息日の火を用意してはどうだ。
・自叙伝を書くってね、-
もう夜になっても
なんにも鳴かない冬なんだ。
・眼を借りて、
眼を貸して、
お互ひはこころの寂しさを
見ようぢゃないか。
枚挙にいとまがないので止める。しかし、著者は石原のほぼ全作品を時代順に遡上に並べて小刻みに論評していく。その大胆さと緻密さの筆裁きは見事と言うほかない。石原の短歌作品を評者には必要以上に思えるほど全文をあげているのには十分な理由がある。短歌世界で巨大な影響力をもった石原の短歌全集がないからである。その証拠に、著者は現代の歌人が石原の作品を熟読玩味し短歌創作に役立ててほしいと述べつつ、今後は『石原純全短歌集』『新短歌概論』を刊行すると意気込んでいる(序)。
短歌と科学の人生を送った石原純の精神は実に冷静である。先にも述べたが、科学の国家統制の時代状況下でも最後まで科学的・合理的な精神から批判的言動を止めることはなかった。ともかく本書によって石原純の短歌の全貌ははじめて示された。今度は、理論物理学としての石原純の詳細な全貌を読みたい知りたいと思うのは評者だけではあるまい。物理学史家と出版界の方々に切望する。寺田寅彦・小倉金之助の著作集は世にあふれている。しかし、かれらと同時人で石原純という優れた「怪物の著作集」がないことはなんと悲しいことであろうか。その意味でも本書の刊行は画期的であり、日本の学問思想の世界にひとつの重要な足がかりを与えてくれたのだ。
この数年前ほどから、評者は日本の数学者・数学史家の小倉金之助(1885-1962)の『全著作集』と地球物理学者の寺田寅彦(1878-1935)の『随筆集』を再読する機会があった。日本の科学思想史上、傑出した数学者と物理学者の二人の著作集は刊行されており、だれでも読める。これにたいして石原純はかれら(小倉と寺田)より数年ばかり上ながら、ほぼ同時代人で日本最初の理論物理学者、高名な歌人であることを考えると、石原純の『著作集』がないことに長年にわたり、評者は疑問であった。ほんとうのところ、どんな理由だろうかは分からない。
石原純にかんして評者が知っていたのは、日本の最初の理論物理学でありアインシュタインの相対性理論の解説者、それに原阿佐緒なるアララギ派の歌人と大恋愛かどうかはともかく「恋愛事件」を起こし、若くして東北帝国大学の教授をなげうった「勇ましい物理学者」、『科学』の責任編集者・科学思想の啓蒙家として日本の戦時下における国家統制時代にも科学者の冷静な科学的精神から徹底的に批判活動を展開した人物ということぐらいであった。しかしながら、石原純の研究論文はおろか短歌作品はほとんど読むことができなかった。そこで最近、長年、理論物理学者としての石原純研究に当たられている評者の師匠の西尾成子氏に、ぜひとも日本の理論物理学者・石原純を書いてほしいと言いつつ、出版界の方々には『石原純著作集』の刊行を切望していたのである。
やはり、著者の『石原純論』の登場は願ってもないことだった。石原純の多数の歌そのものを掲載し、石原純の短歌人生の全貌を明らかにした本書は、まとまった本邦最初の石原純論である。短歌にはまったく疎い評者であるが、上記の問題関心から石原と同時代人の歌人たちの多数の短歌を熟読するはめになったが大変に勉強になった。短歌に興味があったわけでなく理論物理学者・石原純という人間の全貌を知りたいがためだけである。読み慣れない歌を読みつつなにか「教養が付いた感じ」をしたが、読み込むうちに、やはりどうしても短歌と科学論文を含むまとまった『全著作集』の刊行を望みたいと切に思った。
4.おわりに
評者は科学史研究の観点から寺田寅彦・小倉金之助などの著作を読み込んできたが、今回の石原伝の歴史記述に何かしら違和感を持って読んだ。どうもすっきりしない。すらすらと読めない。しかし、膨大な資料を並べての記述は評者の狭い科学史研究ではない壮大な高く深い学問観・思想観が流れていると感じた。物理学徒の歴史記述にしてはあまりにも人間くさい学問思考を探求していると直感した。本書の読了後、著者の学問活動の全貌を知りたくなって著者に直接連絡し全著作を譲り受けた。そして驚いた。著者は押しも押されぬ日本思想史家であった。そして21世紀の学問・思想をあり方そのものを問いただしていると理解した。著者は真摯な生き方を貫いたほんものの思想家を考察の対象として学問・思想・社会を描くことに異常なる執念を燃やしている。
本書読了後、著者に連絡しすべての著作を入手し下記に示した。これらを通読してみると著者は源義一族の末裔のようである。また、著者は長いこと、哲学者の古在由重氏に師事した。著者の学問探究の姿勢はまさに求道者の道を歩んでいるとさえ感じた。評者も著者の真摯な学問探究の姿勢から多くを学びたい。その姿勢とは石原純の考察は論文作成あるいは業績主義の研究であってはならず、21世紀現代の人間がどのように生きるのか、その手がかりを得るための研究でなくてはならないと、著者は繰り返し本書で述べている。大変に重い言葉でる。著者の学問姿勢と強く連帯・共鳴する。
単著
『安藤昌益の思想』甲陽書房、1989年
『安藤昌益と三浦梅園』甲陽書房、1992年
『江渡荻嶺-〈場〉の思想家Ⅰ』甲陽書房、1994年
『源 義綱とその末裔たち』ナテック、2002年共編著
『安藤昌益全集』21巻、農山漁村文化協会、1987年(第41回毎日出版文化賞特別賞受賞)『安藤昌益事典』農山漁村文化協会、1988年(第2回物集索引賞受賞)
『小倉金之助と現代』第1-5集、教育研究社、1985年-1993年共著
『古典の事典』(「精髄を読む-日本版」)第10巻、河出書房新社、1986年
『コーヒータイムの哲学塾』同時代社、1987年
『日本の「創造力」-近代・現代を開花させた470人』全15巻、日本放送協会、1992年