書評:渡邊悦生・中村和夫共編『科学を学ぶ者の倫理』 東京水産大学公開シンポジウム(成山堂、2001年) 2002年2月『週刊読書人』掲載

現場の生物学者と科学論者は融合する道はあるのか

 本書は東京水産大学の公開シンポジウム「科学を学ぶ者の倫理」の記録集である。内容は、「ヒトゲノム計画の社会的倫理的意味」(金森 修)、「脳死・臓器移植と文明のゆくえ」(小松美彦)、「魚介類のDNA組み換え実験の現状と職業倫理」(青木宙)、「組換え食品の安全性」(富田 満)の講演と質疑討論から成る。

 まず、金森氏と小松氏は科学史・科学論の立場から、現代科学技術研究とそれに携わる研究者の倫理を社会総体的な観点から考察する。

 金森氏は開口一番、現代科学は価値中立的であり善・悪に関係ないと考えては「ならない」と問題設定する。その具体的事例として優生学を取り上げる。

 優生学には負の優生学と正の優生学、そして新優生学があるという。新優生学とは全くの個人の自由判断で下す遺伝子操作だが、これらの種々の優生学の社会的問題点を提起する。胎内にいる段階で種々の障害のある子を中絶したり(負の優生学)、知能指数が高く顔がきれいで背の高い子を生むよう操作をする(正の優生学)ことが、リベラリズムのもとで自由勝手に施されたとき、前者は歯止めが効かなくなり、後者はモンスターを生む可能性も否定できない。その社会的な倫理と予想される意味に警告を発する。

 小松氏の議論は徹底した「脳死者の臓器移植」批判である。脳死臓器移植成立以前から独自の生命論・人間論・文明論の観点から批判の論陣をはってきた来たことは知られている。臓器移植は命の価値を天秤にかけた国家の医療殺人であり、最近のグローバリゼーションのもとで脳死者がモノ扱いされ市場の取引にされ、それが歯止めが効かなる現状を論ずる。人間・文化・文明・社会総体まで射程を広げた議論を呼びかけている。

 一方の青木氏と宮田氏の議論は前半の金森・小松両氏の思考対象の基盤とは大きく異なっている。

 まず青木氏は遺伝生化学者で遺伝子組換えの専門家のようである。研究現場における具体的な遺伝子組換え実験法・実験指針等々を明快に論じ、日本の食資源として遺伝子組換え魚の重要性を積極的に訴えている。遺伝子組換え研究者の現場報告であるが、最近の安全性とリスクに関して青木氏は、遺伝子組換え魚は他の食品と同様、100パーセント安全などはありえないので、安全性が科学的に確認されるまでは自然環境へ放出してはならない。しかし、将来、科学的根拠に基づいた安全性評価基準を確立するために国際的な議論が必要だと述べる。

 最後の宮田氏は、1970年代から20数年の遺伝子組換え実験の経験と実績を披露しつつ、徹底した情報公開を遂行することで消費者の理解を求めている。農業の遺伝子組換え作物がアメリカの持続可能な農業を維持するために「大きな役割」を果たしている。農業は持続可能でなくて自然環境を収奪するものだと断定し、一般の市民と消費者の無知からくる遺伝子組換えにたいするアレルギーを一掃する攻撃的な発言が目立つ。しかし、遺伝組換え作物や農業が将来、環境や人体にどのようなリスクを負うか誰にも分からない。しかし、現状では「刹那的」にやっていく以外にないと、忌憚のない自説を披露する。

 ここまで四人の論者の議論を本質を崩さず短く要約したが、最後の質疑・討論を聞きながら(読みながら)思ったことをあげておきたい。

 本書のテーマ「科学を学ぶ者の倫理」の倫理と何なのか。原子力発電、脳死者の臓器移植、遺伝子組換え実験、いずれの科学技術も攻撃性と刹那性をおびている。今日のグローバル化した世界で、新たな世界的な市場を開拓(収奪)すべく、やれやれどんどんと進まざるをえないような政治構造になっている。その中にいる科学者はその社会総体的意味に実に素朴で無頓着である。私が考える倫理とは、小松氏も述べているように、「ひとりひとりの人間の生き方」を重く射程に入れた科学技術のことである。

 とすれば、宮田氏が無知と批判する素人の市民・消費者の国境を越えた異議申し立てを連帯させる大きな運動を作り出すことが最も重要なのである。