著者は日中科学史界における重鎮であり、日中の医学史にかんする重厚な多数の研究がある。例えば『黒い言葉の空間―三浦梅園の自然哲学』で大佛次郎賞、中国古代医学史研究でA.L. Basham Medalを受賞しているなど、日中科学史界に多大な功績を残している。
本書はⅠ~Ⅳ部(10本)と補論(1本)の合計11本の論考から成り、( )に執筆年または発表年で表すと、つぎのようである。
Ⅰ部(二つの展望)は、「十八、九世紀の日本と近代科学・技術」(一九九六、元は英文)、「日本と中国、知的位相の逆転のもたらしたもの」(一九九四、未発表)。
Ⅱ部(科学の出発)は、「飛鳥の天文学的時空―キトラ『天文図』」(二〇〇三)、「日本医学事始」-『医心方』」(一九九七)。
Ⅲ部(科学の日本化)は、「医学において古学とはなんであったのか―山脇東洋」(一九九七)、「反科学としての古方派医学―香川修庵・吉益東洞」(二〇〇六)、「現代日本において学問はいかに可能か―富永仲基」(一九九五)。
Ⅳ部(科学の変容)は、「中国の「洋学」と日本―『天経或紋』」(一九九七)、「幕府天文方と十七、八世紀フランス天文学―『ラランデ暦書管見』」(二〇〇五)、「見ることと見えたもの―『米欧回覧実記』他」(一九九六)。
補論は、「浅井周伯養志堂の医学講義―松岡玄達の受講のノート」(書き下ろし)。
独立する多様な論考なので、興味深い内容を数点だけあげることにする。
日本現存する最古の医学書『医心方』(九八四)は、大陸伝の医書の影響はあるものの、それとは独立に編纂された日本独自の医学書であることを力説する。撰者は丹波康頼(九一二―九九五)。中国漢代の医学を集大成した孫思?(五八一-六八二)の『千金要方』(六五〇頃)に比肩する画期的な著作であることを論証する。
日本の解剖学の創始者山脇東洋(一七〇五-一七六二)が、同時代の医師香川修庵(一六八三-一七五五)や吉益東洞(一七〇二―一七七三)なども尊崇した中国後漢の医師張仲景(一五〇頃―二一九)の中国伝統医学の古典『傷寒雑病論』を学びつつも、荻生徂徠(一六六六-一七二八)の古文辞学から決定的な影響を受け、古代復古を主張し、中国古代儒書の『周礼』(前二世紀頃)にたどりつく。東洋は、『周礼』を自らの著書『蔵志』(一七五九)の基軸に設定し、解剖学に挑みかつ医学を独立した学問に据えたという。この論述は本書の論考の内でもっとも詳細な緻密性を持つ重厚な論考となっている。
日本や中国には科学はなかったとの通説を打ち破り、日本や中国にも独自の科学があったと主張する。それを論証するために著者が引き出すのは、イエズス会の宣教師マテオ・リッチ(一五五二-一六一〇)が、西洋科学を熱心に中国に持ち込み、中国独自の書『暦気考成後編』(一七四二)を誕生させたこと。
日本では大坂の麻田剛立(一六三四-一七九九)と門下の高橋至時(一七六四-一八〇四)らが、その中国書を学び修得し、それを基に江戸の天文局で寛政の改暦を実行したこと。
やがてフランス科学アカデミ―の『ラランデ暦書』(蘭書版、一七七三)を基に、いわゆる天保の改暦(一八四四)を行うに至る過程を明らかにしたこと。
さらに、伊能忠敬(一七四五-一八一八)が日本地図を作成する大事業をやれたのは、上記の江戸の天文方の献身的な支援を受けたからであること、などである。
江戸時代前期の医師浅井周伯(一六四三-一七〇五)が養志堂(自宅)で行った講義(中国医学)を受講した松岡玄達(一六六八-一七四六)の直筆ノート(十部)を詳細に調査し、その全貌を具体的に明らかにする。その講義は、江戸時代前期(十七世紀)の医学の到達した最高の地点であったことを示す。なお、この直筆ノートは、龍谷大学大宮図書館が所蔵するものである。
総じてみると、日本独自の医学天文学の学問的営為が現れるのは江戸時代中期(一七~八世紀)だが、その学問的営為が現れるまでの歴史的源流を丹念に探る厳粛重厚な日中の医学天文学史である。(猪野修治:湘南科学史懇話会代表)