山口 直樹 書評:猪野修治『科学を開く 思想を創る―湘南科学史懇話会への道』(柘植書房新社、2003年)『化学史研究』第31巻、第3号(通巻第108号)2004秋 掲載

 本書は、独自のスタンスで精力的に活動を行なっている猪野修治氏が、これまでに書いてきた文章をいくつかのテーマを柱にしてまとめたものである。その柱を目次にしたがってみておくなら次のようになる。

Ⅰ自己形成、Ⅱブラジル日本人探訪、Ⅲ科学史・科学論、Ⅳ市民運動、Ⅴ核

 それにしても本書の著者、猪野修治氏とは一体、何者なのか?この問いについてはじめに一言だけ述べておけば、猪野氏は、大学アカデミズムの研究者なのではなく東京の私立中高等学校のフルタイム教育労働者である。本書の副題にある湘南科学史懇話会とはその忙しい教育業務の合間を縫って猪野氏が主宰する市民向けの寺子屋的学問所のことである。1998年から神奈川県湘南地域(藤沢市)で湘南科学史懇話会を立ち上げ多くの研究者・市民・学生とともに現代科学技術の諸問題に関する議論・討論を繰り返してきている。これをアカデミズムの学会と同じものとみなしてはならないだろう。なぜなら湘南科学史懇話会は、運営資金の助成などどこからも出ず、参加者の市民の参加料と猪野氏のポケットマネーからのみによって運営されているからである。このような性格をもった科学史に関する会は、他を見渡してみてもちょっと見当たらない。つまり湘南科学史懇話会は、現代日本においては非常に稀有な会であるといえるのである。それにしてもなぜ猪野氏は、あえて忙しい教育労働の合間を縫ってまでして、またかなりのお金のかかるこのような会を立ち上げる必要があったのか。なによりもそのことを念頭におきながら本書は読まれる必要がある。その理由を考えるためにも本書の個々の具体的な内容を紹介することにしたい。

 まず第一章の自己形成では、猪野氏の生い立ちとこれまでの歩みが赤裸々に語られている。猪野氏は1945年に山形県東置賜郡の農家の四男坊として生まれている。スポーツの得意な少年だったようだ。しかし、小学校六年生の時、父親が脳梗塞でなくなったことがきっかけとなって猪野氏の苦学がはじまる。普通校に進学する予定だったが大学にいける経済状態ではないので工業高校(機械科)に進学し、1964年そこを卒業したあと東京に出て日本専売公社機械製作所に入所している。猪野氏は、昼はここで職人さんから工作機械などの操作の指導を受けながら、夜はお茶の水の駿台予備校に通っていた。これが猪野氏の長い勤労学生の始まりだった。こうしたことは東北出身の経済的に貧しい学生のかなりの部分が経験していたことかもしれない。一年間の予備校通いの末、猪野氏は、1965年に東京理科大学理学部第Ⅱ部物理学科に入学する。ここで東京理科大学の先輩から早稲田大学理工学部の実験助手の職を紹介され勤務している。またその次に1967年に東京大学宇宙航空研究所(東大宇宙航空研究所は、現在は東大先端研になっている。)の材料科学研究所に勤務する。ここでは研究者を志望していたという。

 普通ならば、そのままそこで研究者になっていくのだろうが、猪野氏は違った。当時の学生運動の影響を受けていた猪野氏は、同世代の東京大学宇宙航空研究所の大学院生が研究費をふんだんに使い、大量のコピーをとっていることに直観的といってよい違和感を感じることになる。おりしも東大の本郷や駒場では東大における学問とはなにか、

 学者の社会的責任、近代日本政治思想の構造の総体などを問い始めていたにもかかわらず、東京大学宇宙航空研究所では、そのことは話題にすらならない。「これはおかしい。」と思った猪野氏は、矛盾に悩んだ挙句、1969年、すっぱりと東大宇宙研をやめてしまう。かなりの勇気のいる決断であったに相違ない。その日から収入が入ってこなくなるからである。収入の道が途絶えた猪野氏は再び仕事探しをはじめる。家庭教師や日雇い労働で生活を支えながら次第に学問や学ぶことの意味に目覚め始めた。まず社会的事象に関心を向け、考え行動することが「学ぶことの意味だ。」と考え始めるようになるのである。

 中学、高校と本をほとんど読んだことのなかった猪野氏はこのころから猛烈に読書をし始めていたようだ。日本では珍しい市民哲学の伝統を根付かせようとしていた哲学者の久野収氏やその友人だった武谷三男氏の著作などを特に真剣に読み込み影響を受けたという。また、友人の一人から数学者のガロアやロラン・シュワルツの存在について聞かされ、パリの1968年5月革命(原文では1969年となっているが、おそらく誤植だろう。)に関心を寄せる猪野氏は、大学卒業後、フランスに渡航しようとも考えていたようだ。これは結局、実現することなく1971年東京の私立中高等学校の物理教員として就職する。

 これ以降、猪野氏は、科学技術に関係する在野の市民活動家や研究者を中心として多くの出会いを経験している。まず筆頭に上げられるのは、梅林宏道氏と山口幸男氏である。

 そのきっかけは、1972年夏、猪野氏が、当時住んでいた町田市の隣にある相模原市にある米軍基地でヴェトナム戦争向け戦車搬出阻止闘争に対して市民運動「ただの市民が戦争を止める会」が起こり、猪野氏がそれに参画したことによる。

 梅林氏は現在、太平洋軍備撤廃運動国際コーディネーターをつとめるなど物理学専攻の一貫した市民活動家であり、山口氏は現在、原子力資料情報室共同代表であり、三里塚農民と連帯する「くらしをつくる会」の代表をつとめる物理学者である。どちらも今日まで一貫して市民運動に関わってきた物理学徒といってよいが、彼らとの出会いが猪野氏に科学と学問することの意味を問うことを具体的に学ばせたようだ。(猪野氏はヴェトナム戦争向け戦車搬出阻止闘争に参加しただけでなく、実際にヴェトナム・カンボジアにまで旅している。猪野氏の行動力の一端を物語るものといえるだろう。)

 その次にあげられているのは、反公害闘争、環境問題、原子力問題などの市民運動をとおした出会いである。その出会いでもっとも重要なものは、高木仁三郎氏との出会いであった。

 猪野氏は当然のごとく反原発運動にかかわるなかで高木氏の著作を夢中になって読んでいる。猪野氏は、「私の世代が彼らの世代から受けた影響は、計り知れないものがある。」と述べているようにその影響は決定的といってよいようなものであった。猪野氏は自分が影響を受けた武谷三男氏と高木仁三郎氏が、1975年に原子力資料情報室が創設され、その代表だったことを述べたあとで武谷氏と高木氏とのスタンスの違いについてもふれている。

 それによれば、武谷氏は物理学者の立場を保持しながら、原子力問題に関わりその道を情報室に求めたのに対し、高木氏は、核化学者という自らが育ってきた慣習・思考から一端自らを解放し、ただの市民の立場から原子力問題を考えようとしていたという。このスタンスの違いが、武谷氏と高木氏を「別離」させることになる。しかしこの別離こそが日本における本格的な市民科学者が転換する転換点だったと指摘している。的確な指摘だというべきだろう。これは、どちらがよいとか悪いとかいう問題ではなく、このスタンスの違いが、今日においてもさまざまな意味で重要な意味をもっているということである。

 なお、1995年2月、猪野氏は高木氏を勤務校の講演に呼んでいることも付け加えて紹介しておきたい。ここまでが猪野氏の30代前半までであるが、猪野氏は単に紙の上だけでは経験できない市民運動をつうじた「生きた勉強」をしていたということがいえるだろう。

 とはいえ、これまでどちらかというと市民運動の側に重点をおいて活動を続けてきた猪野氏ではあったが、実質的な科学史を中心とする学問に本格的な関心をもち始める出会いを1980年に経験している。猪野氏はこれを「私の学問事始め」と述べている。

 その出会いとは、東京の高田馬場にあった学問研究団体の「寺子屋」で山本義隆氏に出会ったことにほかならなかった。当時、「寺子屋」は、哲学、思想、科学、文学等をゼミ形式で議論する研究会であったが、山本義隆氏は、ここで「力学的世界の系譜」の講師を勤めていたのであった。山本義隆氏とは、『知性の叛乱』(1969)において近代学問構造の総体を根源的に問い直した元東大全共闘の物理学徒であり、予備校講師をしながら、重厚な物理学史の書を次々と世に問うているきわめて鋭利な知性の持ち主にほかならない。山本氏の日比谷公会堂での名演説を直接聞いたことのある猪野氏は、ここで苦学時代に果たせなかった学業をおもいっきりここでやり直そうと決心する。この機会を逃したら二度とその機会も気力もなくなると思った猪野氏は、猛烈に勉強をはじめる。その後、一応1980年に寺子屋の研究会は終了したが、猪野氏の提案で山本氏の個人ゼミを企画し、それは十年も続いたという。ここで猪野氏は「私は山本氏を学問上の師だと思っている。」と述べている。猪野氏は、スタートは遅い晩学ではあるものの良い学問上の師に恵まれたというべきだろう。この寺子屋での経験が、今日の猪野氏の柱となる湘南科学史懇話会の活動スタイルに影響を与えていることは容易に想像できる。猪野氏は、山本義隆氏が、マスコミに対しては一切沈黙を守ってきているが、東大闘争中に発行された全国に散らばる無数のビラ、資料類を全国から収集し、全二十三巻マイクロフィルム三本にのぼる『東大闘争資料集』として刊行したことを紹介し、「なんという誠実さであろうか」とも述べている。おそらく『知性の叛乱』における「自己否定に自己否定を重ねた後は一介の物理学徒として生きていきたいと思う。」という主旨の言葉は、その場限りのものではなかったのである。

 1980年代から山本義隆氏のような在野の学問上の師との出会いを果たした猪野氏であったが、この頃からそれまで疎遠だったアカデミズムの科学史家とも知りあうようになっている。1981年に勤務先から一年間の国内留学を認められた猪野氏は日本大学理工学部物理学科の西尾成子氏の研究室を訪ねている。これをきっかけに猪野氏は、アカデミズムの科学史家と知りあうようになる。この年、猪野氏の物理学史のもう一人の師といってよい西尾氏が編集した『広重徹科学史論文集』1・2(みすず書房,1981)が刊行されたので西尾氏の「現代物理学史」の授業を受講するのと並行して、広重徹論文集や著作集を読み込んでいる。このころ村上陽一郎氏や中山茂氏の講義にも参加したり、物理学史家の山根大次郎氏にも出会ったりもしているようだ。

 特に猪野氏にとってアカデミズムの科学史家との出会いで重要だったのは、佐々木力氏との出会いであろう。

 西尾氏が、「科学史談話会」を東京の私学会館で開催したとき、プリンストン大学大学院留学から帰国した佐々木力氏に猪野氏は出会っている。20代の後半に佐々木力氏が、『思想』に書いた各種の論文を読んでいたので、同じ東北出身という関係もあって『思想』の論文について率直に話したようだ。それに対して佐々木氏は「君は私のスパイか」と応じたらしい。なかなか興味深いエピソードだが、その単刀直入な言い方が、アカデミズムの学者のいんぎん無礼なものの言い方とは異質のものだと猪野氏は直感している。とはいえこの出会いは、その場限りのものに終わるだろうとそのとき猪野氏は、思っていたらしい。しかし、実際にはその後、猪野氏は、佐々木力氏の科学史書をすべて読み込み、緊張関係に満ちた思想的連帯を維持していくことになるのである。

 事実、本書の序文は佐々木力氏が、執筆していることはまさにそのことあらわれであるだろう。

 1985年、アメリカのバークレーで開催された国際科学史会議に猪野氏は一人で参加している。これはバークレーがアメリカでのヴェトナム反戦運動の起爆剤となった学生反戦運動のメッカだったからであるという。ここで日本では全く知らなかった廣政直彦氏(東海大学)古川安(横浜商科大学)常石敬一(長崎大学)田川正賢氏(日本大学)などの大学アカデミズムの科学史家と知りあっている。その後も猪野氏は1989年にドイツのハンブルグとミュンヘンで開催された国際科学史会議に1993年には、スペインのサラゴサで開催された国際科学史会議に1997年にはベルギーのリエージュで開催された国際科学史会議にそれぞれ参加している。大学アカデミズム以外の人がこうした国際科学史会議に参加するのは異例のことであろう。ベルギーのリエージュの国際科学史会議は猪野氏にとっては、あまり面白くなかったようだが、ここで学会終了後にアムステルダムにある「マンデル研究センター」を訪問している。マンデルとは、エルネスト・マンデルというマルクス主義経済学者であるが、このセンターへの猪野氏の訪問は特筆すべきものだ。なぜなら猪野氏は、「実はマンデル研究所の見聞こそが、翌年の私が主宰する「湘南科学史懇話会」を立ち上げる直接の要因となったのである。」と述べているからである。この研究所は、国際的な労働運動にかかわる学者、市民、活動家などの交流の場となっているが、おそらく猪野氏は「日本版マンデル研究センター」を意図して湘南科学史懇話会を立ち上げることにしたのであろう。

 1990年代の猪野氏のもうひとつ重要な出会いについて述べなければならない。

 1992年「物理学者の社会的責任」サーキュラー編『科学・技術・社会』という季刊の雑誌を読んでいた猪野氏は、ある文章にひきつけられくぎ付けになった。ある文章とは上田昌文「『科学と社会を考える土曜講座』の試み」という文章だった。アカデミズムと市民運動の両者がうまく機能するために、さまざまな学びや交流の形が模索されるべきだと提案する上田氏の文章は、これまでの『科学・社会・人間』の文体とは明らかに異質のものであった。この文章に心打たれた猪野氏は、「科学と社会を考える土曜講座」の常連となり、支援をしつつ、「学びと交流」に関わるようになっている。ここ猪野氏は、「高木仁三郎氏の後を継ぐ一番の人物は、上田氏であることは間違いない」と述べているが、最近、市民科学研究室と名前を変え、日本における力ある市民科学の新しい展開を模索する上田氏らの活動は猪野氏の活動と共鳴しつつ、さらに注目を集めることになろう。

 上田氏のような市民科学者との出会いと同様に重要な1990年代の出会いとして猪野氏と市民歴史家、笹本征男氏との出会いをあげねばならない。笹本氏との出会いは、猪野氏が、本誌『化学史研究』に笹本氏の『米軍占領期における原爆調査―原爆加害国となった日本』(新幹社,1995)を書評したことをきっかけに始まった。笹本氏もまた猪野氏と同様、中央大学の夜学で学んだ苦学の人であった。そして大学卒業後もアカデミズムに所属せず、だから研究費も自分の身銭を切って行なうしかない市井の市民研究者であった。猪野氏が笹本氏を市民歴史家と呼ぶ理由がここにある。また笹本氏は、一貫して在韓被爆者の問題に取り組みつづけている人でもあることを付け加えておきたいが、猪野氏は、「彼のような市民歴史家にこそ何らかの研究費を与えるような社会状況をいまこそ創り出すことが重要である。」と提案している。高い見識であるというべきである。既成のアカデミズムの盲点になるような研究であっても重要な研究というものはあるからである。まさに笹本氏の研究はそのようなものだ。アカデミズムに所属していないからという理由だけで研究費が与えられないというのは不思議な話である。

 さてここまで、猪野修治氏とは何者なのかについて自己形成のところを重点的に紹介・批評してきた。本書の内容は、多様なので網羅的な紹介はとてもできないと考えたからであるが、本書のもっとも核をなす部分は、まさにこの自己形成の部分だと評者は考えたのである。これによって猪野修治氏が何者なのかについてかなり明らかになったのではないかと思う。

 Ⅱブラジル日本人探訪は、猪野氏の母方の家族が移民したブラジル(猪野氏の母方の家族のなかで日本に残されたのは猪野氏の母だけであった。)を訪問したときの事を書いたやや異質な章であるが、Ⅲ科学史・科学論、Ⅳ市民運動、Ⅴ核は、ここで紹介した人との出会いによって書かれたといってよい論考や科学批評あるいは市民運動批評なのである。

 Ⅲ科学史・科学論では、語られることの少ないジョルダーノ・ブルーノ論、731部隊批判を中心とした「日本帝国主義下の科学」などの論考と西尾成子氏の『現代物理学の父 ニールス・ボーア』や佐々木力氏の『近代学問理念の誕生』『科学技術と現代政治』『二十世紀数学思想』や山本義隆氏の『重力の力学的世界』『熱学思想の史的展開』『古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ-』などが紹介・批評が掲載されている。

 またⅣ市民運動では、猪野氏に最初に大きな影響を与え、市民運動に大きな役割をはたした物理学者の武谷三男と市民運動家、小田実の対談、異色の小学校教師、藤田邦彦の活動がまずとりあげられた後科学技術者の反米基地運動を振り返るとして市民運動家、梅林宏道氏の活動に考察が加えられる。さらにこの章の締めくくりとして「専門的批判を実践しつづけた市民科学者の苦闘」を書いた書として高木仁三郎氏の著書『市民科学者として生きる』がとりあげられ、この稀有の市民科学者の生涯が猪野氏によってたどられている。

 Ⅴ核では、スミソニアンにおける原爆展論争についての論考、さらにその関連として市民歴史家の笹本征男氏の『米軍占領下の原爆調査―原爆加害国になった』が原爆被爆調査を新たな視点で解体するものとして紹介・批評が掲載されている。Ⅰ自己形成のところで語られた出会いが物理学史を核としてⅢ、Ⅳ、Ⅴでそれぞれ結晶しているということができよう。

 個々の詳しい紹介は、紙幅の都合でとてもできないが、読者は自分の目で猪野氏の「読み込み」がどのようなものなのかをぜひとも確かめていただきたい。

 最後に個人的な経験を紹介することで本書の拙い紹介を締めくくらせていただきたいと思う。猪野氏が、1993年ごろから交流を開始する「科学と社会を考える土曜講座」がちょうど十周年を迎えたときそれを記念するパーティーが、2002年東京で開催されていた。そこで最初にあいさつのスピーチをしたある気鋭の科学史家が、猪野氏のことを「熱血不良少年」と評しているのを聞いた。私はその科学史家の人間観察の鋭さに驚き「うまいことをいうなぁー」と感心してしまった。佐々木力氏が本書の序文で猪野氏のことを「湘南のメルセンヌ」と述べているが、さらにもうひとつの別名が、実は「熱血不良少年」なのである。これは「科学と社会を考える土曜講座」の仲間内などではかなり浸透している別名であるといってよい。「熱血不良」とは、現実の権威に抵抗するものを冷ややかに嘲笑するシニシズムからもっとも遠いことをあらわしたまさに言いえて妙の言葉であると私は思う。猪野氏と似たスタンスを取る人を若手であえてあげるとするならば、「科学と社会を考える土曜講座」を主宰する上田昌文氏ということになるだろうが、上田氏は「熱血不良」というのとはちょっと違った感じの人である。やはり「熱血不良少年」という言葉がもっともぴったりとくるのは、本書の著者、猪野修治氏をおいて他にはない。全共闘世代といわれる猪野氏の世代では若い一時期、時流に乗って急進化した後、時代が保守化するやいなやはやばやと「転身」を遂げた人々が、かなり存在する。猪野氏はこうした人々と比べて、さまざまな諸事情によって出発はおそかったものの時代の保守化に反比例するかのようにここにきてさらにラディカルな言論活動を展開させるようになってきている。今後は梅林宏道氏や山本義隆氏らへのインタビューといった「普通の」研究者にはできないような仕事が猪野氏によってなされることが期待される。

 そしてその猪野氏のライフワークとなる湘南科学史懇話会の活動が日本では育たなかった下からの市民的民主主義の育成の場として大きく結実することを祈らずにいられない。「熱血不良少年」の闘いはまだまだ続くのである。