書評:真島 一郎 川村 伸秀[編]『山口 昌男 人類学的思考の沃野』(東京外国語大学出版会、2014年10月31日)

十数年来、藤沢市在住の劇作家白石征が主宰する「遊行舎」の演劇「遊行かぶき」に注目し観劇を続けている。「遊行かぶき」とは、「中世悪党伝」(三部作)「一遍聖絵」「しんとく丸」「さんせう太夫」「きつね葛の葉」など、説経節政太夫の弾く琵琶の響きに導かれる中世の説経節や軍記物語を現代に甦らせる演劇である。今年は7年ぶりに「小栗判官と照手姫」を公演したが、白石の眼差しはつねに、民衆の願望と無常の世界を表出し、情愛に満ちた民衆意識を現代に復権させることに向けられる。演者は成熟し、観客は感動を受け続けている。

この白石征の演出する遊行かぶきを、山口昌男は次のごとく評している。「中世芸能をとどめる藤沢は、片瀬の浜で行った一遍の踊り念仏をはじめ、中世絵巻「一遍聖絵」の世界がまざまざと感じられる、魅力ある町である。・・・この十数年間、演出を担当する白石氏は生者と死者、冥界と彼岸の混淆する死と再生のドラマを、寺山修司の流れをも巧みにとり入れて、ユニークな地方発信の地霊の演劇として、すでに浅からぬ感動を多くの人々の与え続けている」(『遊行フォーラム十五年の歩み』)。

山口昌男は晩年、白石征の演劇の礎となっている寺山修司の世界を評して、正直に「寺山の本があれば、僕の本なんかいらないね」と語ったそうだが、そうだとすれば、山口の文化人類学は言語化されない劇的空間の哲学であるとも言えるかも知れない。そうなれば人類学者山口の劇的空間の哲学を知りたくなるのは人情だが、本書は、その劇的空間の哲学の全貌を全面的に披瀝することに成功している。まずそれは、用意周到に準備され熟慮された見事な構成と内容に表れている。

はじめに編者のひとりの真島一郎が文化人類学の後継者の立場から山口人類学の詳細な概要を述べたあと、多数の論者が山口の世界を縦横無尽に語っている。主要な項目は、追悼シンポジウム講演、山口昌男を読む、山口昌男のスケッチ、野生の思考と詩学(山口昌男への招待)、ブックガイド(同時代書評)、学術研究の記録、山口昌男の年譜・著作目録、最後に編者後記からなる。

実に読み応えのある論考ばかりである。山口から『共同幻想論』を批判された吉本隆明の辛辣な批判、トロツキーの文学や芸術観を愛したこと、自宅の食器棚にまで書物を入れ憤慨する夫人のこと、世界各地での各様のフィールドワークの地道な有様、等々が記され、山口の人間像と学問観が十分に披瀝されている。

また西アフリカ諸国を皮切りに世界各地を歩いた山口は、つねにスケッチブックを持ち歩き、世界各地の自然の風景と人間の所業を、繊細な眼力と筆遣いで描いているが、その眼力と筆遣いには目を見張る。その背後にある精神は、『「敗者」の精神史』や『「挫折」の昭和史』を執筆する精神と通底する。

なによりも圧巻なのは、編者のひとりの川村伸秀が、数十年も悪戦苦闘のすえに作成した見事な資料「山口昌男年譜・著作目録」である。この年譜・著作目録の見事さには驚きを禁じ得ない。必見である。川村によると、30数年前の20代後半から30代初めにかけて、国立国会図書館に一年間通い、著作目録を作り、山口に会いに行き、それらを見せたことから交流が始まる。

それ以来、川村は山口の著作の編集に深く関わることになるが、とりわけ山口が病魔に倒れる前の10年間は週に一度は会っていたというから、川村がいかに山口の厚い信頼を得ていたかが知れる。そればかりではない。年譜を作成するのは四度目、著作目録は二度目だというから、そのほれ込みと執着ぶりは並大抵ではない。この年譜と著作目録が本書全体を支える大黒柱となり、その大黒柱に支えられ、多様な論考が山口の劇的空間をゲリラのごとく自在に交錯する。今後、文化人類学者「山口昌男」入門の高質で最良のテキストになるだろう。(猪野修治:湘南科学史懇話会代表)