書評:マーティン・ハーウィット『拒絶された原爆展-歴史のなかの「エノラ・ゲイ」』(山岡清二監修・渡会和子/原純夫訳、みすず書房、1997年7月)
猪野 修治  1995年12月「科学と社会を考える土曜講座通信』第18号

Martin Harwit の闘い

 第二次世界大戦末期、米国は日本の二つの都市、広島(1945年8月6日、午前8時15分)と長崎(1945年8月9日、午前11時2分)に原子爆弾を投下した。日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結する(1945年8月15日)。第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年、米国のワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館が、広島に原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」の展示を含む特別展「原爆展」を開催する企画をたてた(1992年12月21日正式承認)。マーティン・ハーウィット館長と学芸員たちは、原爆搭載機エノラ・ゲイによる原爆投下と第二次世界大戦終結に関して、学問的な歴史的研究に基づき、その事実的意味を問う展示することを目論んだ。

 この学問的な歴史的研究に基づいて企画された「原爆展」に対して、米国在郷退役軍人協会、空軍協会、米政府議会、マスコミ、世論等々から、原爆展開催反対の猛烈な抗議運動が起こった。猛烈な批判と抗議を受けた航空宇宙博物館側は、これらの反体諸勢力と妥協・協調・合意をはかろうとかぎりない交渉を持った。その苦難に満ちた交渉を持つものの、その努力もむなしく原爆展は中止に追い込まれた(1995年1月30日)。そして、マーティン・ハーウィット館長は辞任する(1995年5月2日)。これがよく知られた米国におけるスミソニアン原爆展論争の概要と結末である。

 本書は、日本と直接に関係する原爆展大論争の火付け役の主役、スミソニアン航空宇宙博物館館長マーティン・ハーウィット自身による原爆展論争に関する詳細なドキュメントである。 20世紀末の今日、今世紀に起こった最大の重大事件が原爆投下であることは論をまたない。米国の原爆製造計画いわゆるマンハッタン計画の科学的政治的結実としての原爆が日本へ投下されたという厳然たる現実がある。この現実は無差別な大虐殺であるばかりか、戦後の冷戦体制下の「核抑止力」イデオロギーを支える機能を果たしてきた。この核抑止力イデオロギーの政治思想は、つまるところ科学技術戦による「みな殺しの思想」である。科学技術史に関心を向ける者は、みな殺しの武器としての原爆をつくり出して来た科学と政治の形相の歴史的考察を原点にしなければならない。今世紀はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の世界で示されたことを合わせ踏まえて考えると、自然界のありとあらゆるものを科学技術の力によって「いかに有効に殺すか」という「殺しの論理思想」、これが科学技術の進歩・発展とされたのである。我々の日本の価値意識もこの殺しの論理思想の範疇の呪縛から歴史的にはいまだ解き放されてはいない。日本の戦争加害責任の問題についての歴史的な精算をいまだにやれていないからである。なんと愚かなことか、これが日本の政治の現実である。

 著者のマーティン・ハーウィットはチェコ生まれのアメリカの天体物理学者として活躍したのち、コーネル大学に科学史・科学哲学のプログラムを作り、科学技術史に関心を向けてきた。その力量をかわれ、スミソニアン協会群のうちでもっとも人気のある航空宇宙博物館の館長に就任する。ハーウィットは就任した当初から「単なる航空宇宙の飛行機の展示でなく、その時代と社会を背景にして社会的論争を生むようなテーマをとりあげる」つもりでいたのである。その考え方はそれ以前の航空宇宙博物館での展示思想にはみられなかったものである。

 ともかく、ハーウィット館長の意想を反映した学芸員たちが作成したのが、展示台本第1稿「歴史の岐路:第二次世界大戦の帰結、原爆そして冷戦の起源」(1994年1月14日完成)である。その趣旨はこうである。「原爆投下にいたる政治的軍事的要素、広島・長崎の人々が体験した人間的悲惨、そして1945年8月6日と8月9日の出来事が持つ長期的な意味という見地から、これらについて思慮深くバランスのとれた考察ができるような気持ちを、来館者に起こさせること」である。この趣旨を反映した展示台本第1稿は、歴史家が指摘しているように、学問的・誠実・良心的な歴史観が示されており、私は感動の念を禁じ得なかった。

 しかし、この学問的・誠実・良心的な歴史観に基づく展示台本が、米国でかつて起こったマッカーシズムならぬ猛烈な批判と抗議をあびることになる。その批判と抗議の主なものは次のようなものである。原爆投下によって、戦争が早期に終結し、本土侵攻作戦で予想された50万とも100万人ともいわれる米国人が救われたばかりか、日本人も救出された。その「常識化・神話化した歴史事実」を見直すことは、戦闘に関わった退役軍人を公然と侮辱するものである。博物館の歴史解釈は左翼修正主義集団であり、まるで彼らは反米的な反核運動家集団である。こうした批判にさらされたハーウィット館長は針のむしろにおかれることになるが、これらの批判諸勢力となる退役軍人、空軍協会と度重なる交渉と妥協を計りつつ、まとめたのが展示台本第5稿「最終幕-原爆と第二次世界大戦の終結」(1994年10月26日完成)である。米国世論の「原爆神話」を追認する内容となってしまった。

 これに対してこれまで「傍観者的立場」から博物館側を支援していた歴史家たちが、今度はいわば左側から博物館批判を展開する。これに対して館長のハーウィットは怒り心頭である。彼にいわせると、退役軍人や空軍協会からの抗議と批判にさらされ、もっとも援助がほしいときに何の支援もせず、いまごろなにをいっているか、というものである。まったく同感である。これでも、ハーウィットは原爆展を開催するつもりでいた。ところが事態は予想外の展開を見せた。ハーウィットは歴史家達の指摘を受け、自らもそれを確認し、最終展示台本の「ひとつのラベル」の内容を変更する。これが命取りになった。そのラベルとは、原爆投下せず日本本土(九州)侵攻した場合の死傷者数に関することで、企画書では「25万人」としていたものを「6万人3000人」と訂正する(この数字の出所は1946年6月18日付けのレーヒ提督の日記である)。

 ハーウィットの科学者の良心にもとづく大決断であった。これに対して再び嵐のよう抗議運動が起こった。政府・議会も本格的に博物館を批判決議するなど、原爆展中止の動きが加速し、ついに、スミソニアン協会のヘイマン長官は原爆展中止を表明する(1995年1月30日)とともに、ヘイマンはハーウィットを排除していく。 以上が本書から読みとった原爆展論争の骨格的部分である。

 私は1995年以前から、スミソニアン原爆展論争の成り行きと、米国の体制内の重要な権力機構で航空宇宙博物館の館長が、原爆投下と第二次世界大戦総体を見直そうとしていることに注目していた。そしてまた、館長のハーウィットとはどんな人物なのだろうかと思っていた。そのハーウィトが来日し、1996年11月8日、東京大学教養学部(駒場)で「拒絶された展示」という講演をした。その夜は渋谷で、翌日9日の午後は横浜の中華街で、主催者の佐々木力氏(東京大学)、それに駒場の学生3人とともに、長時間にわかり懇談する機会があった。彼は政治的手腕を発揮する人物ではなかった。良心的で誠実な科学者の典型そのものであった。私が読み知り予想していた米国社会をゆるがす大論争を引き起こした人物像とは大きくかけ離れていた。

 話題は前日の講演の少しばかりの内容と、あとは私的なことがらが中心であった。前日の講演における、航空宇宙博物館前館長の立場とはうってかわって、私人ハーウィットの穏やかな姿があった。そして、私は、その穏やかで誠実な語り口のなかに、歴史的事実を冷静に考察する天体物理学者としての強靱な精神を読みとった。そして感動した。長い懇談を終えた深夜の帰路、私の自宅の近くのホテルまで送った私は、こころがほっとするような気分になっていた。最後に彼はこういった。「ワシントンでまた会おう」と。

 今年(1999年)の3月13日、私はある学会から要請され「原爆展論争と日本の戦争加害責任」という講演を行った。その準備として再度、本書を読み直したが、本書の行間に流れるひとつひとつにハーウィットの姿を重ねて読んだ。そして再び感動した。特に原爆展論争の経緯の著述の仕方が、一貫した歴史観を貫徹したものであり、かつ実に誠実で公平なのである。どういうことか。

 まず第1は、ハーウィットが館長就任当初から目論んでいた「博物館観」が、米国社会を巻き込んだ大論争中において一貫して示され、その博物館観が、最後まで変貌することがなかったことだ。その博物館観とは、「博物館は、過去の歴史を伝えるだけでなく、今日に関わる問題を問いかける教育的役割も果たさなければならない」という強靱な考え方である。これはスミソニアン協会のそもそもの創立者で英国の科学者ジェイムス・スミッソンの意志でもあったのだ、とハーウィットは本書の随所で述べている。第2は、博物館側が作成した企画書(展示台本)の内容を猛烈に批判した、退役軍人、空軍協会、マスコミ、世論など、愛国主義的で原爆神話観に基づく考え方と信条を、独善的に批判・非難する立場をとらなかったことだ。これらの反対批判勢力が展開した膨大な書簡、新聞内容、公開書簡、私的メモ、博物館中傷の文書を十分に取り上げつつ、それに応える博物館側の公開書簡、内部文書、内部の私的メモなどを全面的に公開し、大論争の経緯で何が起こり何が論じられてきたかを、歴史家の冷静な語り口でたんたんと記述していることだ。なによりも、この企画者と批判勢力の考え方を同時並行的に公開した文書を対等に俎上にのせ、その善し悪しは読者に判断を任せるという思考態度それ自体が、今回の大論争中における博物館側の一貫した思考的態度を裏付けている。

 本書の最後でハーウィットは次のように述べている。「ひとたび展示が開催されれば、批判を受ける覚悟はあった。しかし、「最終幕」がついに開催されないまま中止となり、そのカタログは発禁となって、博物館の仕事は跡形もなく消し去られてしまった。残っているのはメディアでもてはやされた風刺漫画ばかりで、そこに描かれた歪んだ像が今は展示中止を正当化しようとする人々の役に立っている。われわれの反対者たちは、われわれが本当にしたことを消し去りたがっているのだと、私は信じている。そうすれば、国民からこの展示とそのカタログを自分の目で判断する機会を奪った彼らの決定に対して、誰も異議申し立てができなくなるからである。彼らの行為によって、この国は大きな損失をこうむった。いまなお私は、1995年1月30日、すなわちスミソニアン協会評議員会が「最終幕」展の中止を決定したあの日にできあがっていた最終の展示計画を支持している。スミソニアン協会の新長官も新評議員もそうはしなかったが、私は、ジェームス・スミッソンならば、展示が計画どおり開催されるよう、私を支持してくれたはずだと確信している。つまるところ、博物館はスミッソンの遺志を継ぐ仕事をしようとしていたのである。やがて、いつの日か、おそらく「最終幕」展が再び形になる時がくるだろう。その時には、私は必ずやそれを守り通す用意を整えているはずである」。

 なんという覚悟であろうか。米国社会で再びあの大論争がやってきて「最終幕」展が実現するまで、ハーウィットは生きておれるだろうか。難しいかも知れない。しかし、その仕事が次の世代に委ねられることになったとしても、次世代の歴史家にハーウィットの仕事は必ずや継承されるに違いない。ハーウィットは米国の政治体制内国家機関の航空宇宙博物館長という立場を逆に利用して、20世紀の最大で重大事件の原爆投下に関する「原爆神話」を揺さぶるとともに、第二次世界大戦、その後の核開発競争の総体を見直そうと、果敢に闘ったのである。

 さて、我々は米国の原爆展論争から何を学び何を継承するかのを考える。博物館側の作成した企画書に対する批判的論調の重要な論点は、企画書があまりにも日本に同情的であるとか、日本政府、日本軍、昭和天皇の戦争責任問題(中国人への細菌兵器の使用、南京大虐殺、従軍慰安婦等々)が未解決であるなどと、ことあるごとに指摘したことだ。米国国民には原爆投下で死滅させられた広島、長崎の人々の現実を見たくないという触れられたくない心の傷が残っている。それゆえに、何が何でも「正しい戦争」でなければならなかった。換言すると、その声が高ければ高いほど、癒やされることのない心の深い傷を覆い隠そうとしているのだ。

 この議論の延長線上に、日本政府、日本軍、昭和天皇のアジア侵略に対する戦争加害責任問題の具体的な見直しを求める議論があった。20世紀末の今日、いまだに日本国家の責任を果たせずにいる現実を直視し行動することを、スミソニアン原爆展論争は教えてくれたのである。さらに、太平洋戦争に関わった戦争当事国の「歴史認識をどのように共有するか」も、論じられた。ハーウィットや原爆投下研究の第一人者で歴史家のバーンスタインは、原爆展論争の過程で指摘しているように、歴史認識の共有を計るためには、まず第一に、日本政府・日本軍・昭和天皇が侵略したアジア諸国に対する歴史を総括すること、第二に、戦争を推進した人物が戦後、日本の社会で高い地位にのし上がることを日本自身が許してきたという意味を具体的に考察することである。

 私がスミソニアン原爆展論争を考察する過程で脳裏から離れなかったことは、このことである。ハーウィットは米国社会の歴史認識を見直すための闘いには無惨にも破れはしたが、その苦難の闘いの質は今度はそのまま日本の歴史家に向けられているのだ。日本国家の公的機関の国立科学博物館で、「税金」を使って日本の戦争加害責任展をやれるだけの政治状況を作り出せるような歴史認識と運動を、日本の歴史家はつくりだせるだろうか。歴史家の仕事は重大なのだ。

 私は本書が刊行されて以来、なんども熟読しつつ、ことあるごとに、さまざまなところで話題にしてきた。1968年当時以来この方、数十年ぶりに身震いするほどの衝撃的な読書体験であった。日本でも上で述べような「戦争加害責任展」を開催できる状況が発生したときは、私は、ハーウィットと行動をともにしたいと考えている。私にとり今後の生き方に指針を与える古典中の古典となった。最後に、すばやくみごとな本書の翻訳に関わってこられたすべての方々に深く感謝しておきたい。