書評:米本昌平『知政学のすすめ』(中公叢書、一九九八年) 週刊『読書人』一九九八年十月九日号 掲載

科学研究と政治を総合する研究基盤を具体的に提唱する

 二十一世紀目前である。来るべき二十一世紀は環境と共生の時代であるべきことは論を待たない。その環境と共生の時代の内実と展望を確たるものするためには、まずは今世紀に現象したこの課題にかんする厳格な歴史的研究から始めなければならない。今世紀の自然と社会の環境とは、戦争・軍事研究・環境破壊・大量生産・大量消費・大量廃棄(フォーディズム)という自然と社会にたいする攻撃的な世界像の範疇にあった。地球温暖化、酸性雨、ゴミ、核エネルギー、生物医学研究、海洋汚染、核廃棄処理・・・等々のどれひとつとってもそうである。

 逆説的に言えば、今世紀に人間の営みの結果として作りだし抱え込んだこれらの「負の遺産」は環境と共生の時代を作り出すための一種の通過点的産物であったのかも知れない。これらの負の遺産は科学と政治の問題、広義には現代文明のありようの具現化でもあり、二〇世紀末のいまこそ、その現代文明のありようそのものの本格的な見直し作業が求められているのである。

  本書の著者米本昌平氏は長年、こうした現代文明の負の遺産とも言える人為的な自然的社会的現象を、そこに内在する科学的課題と政治的課題を一体化する総合的視点から精力的・説得的に論陣をはってきている日本では「希有な旗手」である。希有な旗手とは、日本では上記の一連の科学的課題と政治的課題を一体のものとして、総合的視点から冷徹・真摯に議論する学問的研究とそれを受容する社会的システムが、いまだに市民権を持ち得ていないからである。そればかりか、この仕事は、一連の問題を見て見ぬ振りをする無節操なまたは科学研究と政治の関係性に無自覚なほどタコツボ化したアカデミズムの世界に見切りをつけ、在野にあり身銭を切って種々の科学研究と市民運動を担うごく一部の活動家の著作に見られるだけだからである。その意味で私は、著者が本書の随所で主張する「科学研究は政治」であるとの認識に同調する。

 著者はアカデミズムが作り出した理科系、文化系などの人為的産物と決別し、生物学の歴史的研究を皮切りに、これまでバオエシックス・遺伝子管理・地球環境問題・・・等々の科学研究の諸問題を政治・外交の問題を射程に入れながら、広く科学と社会の諸問題を論じてきているが、著者はこの一連の考察態度を「知政学」と名付ける。「知政学のすすめ」なる本書は次の論文からなっている。科学技術文明をどう読みとくか、オウム真理教事件と科学技術倫理、阪神淡路大震災と安全保障概念、テレビメディア批判と革命の予感、政治的パワーとグリーンピース、冷戦終焉と地球環境問題の主題化、日本外交の課題としての広域環境問題、九〇年代アメリカの科学技術政策の転換、ゲノム研究の展開と今後、スウェーデン断種法とナチス神話の成立、構造化されたパターナリズムからの脱却、知政学への飛躍。

 私がこの数年、権力機構の刹那的な科学研究を批判し、市民にとっての科学研究のあり方を作ろうとする種々の、特に若い世代の市民的学問運動に関わり積極的に支援してきている立場から本書を読むと、彼ら彼女らが現在の科学研究の価値観や研究動機などの総体を批判し、新たな価値観と研究意義をもった科学研究とその社会的システムを作りだそうとするさいには、本書をはじめとする著者の科学研究と政治を総合的に概観する視点から考察する一連の論考は大きな示唆となるにちがいない。